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正法眼蔵 行持(下) 45

芙蓉道楷禅師の言葉は続きます。

説法を聞いている諸子よ。
  
この様な仏道修行(坐禅)をやる事によって真実を掴むならば、それこそ欠けるところのない人物と言う事ができる。そして坐禅の修行を通じて体験的に真実と言うものを掴むと言う事がないならば、今後大いに努力が必要ではないかと甚だ心配である。
  
拙僧(わし)は、仏道修行におけるこれと言った徳行や業績もないまま、恐れ多い事ではあるが寺院の住職として生活している。何もしないで寺院の財産をすり減らして、先輩方の言い残された仏道を広めろと言う遺言を忘れてしまってよかろうか。ようやく最近になって過去の先輩方が行われたと同じ様な、住職としての体裁を身に付ける事ができそうな状態になって来た。
 
そこで諸子と相談の上で、今後寺院から決して外に出まい、後援者の食事の招待にも応じまい、募金を募って寺の財産を増やすことをしまい、ただこの寺院の土地から得られる穀物など1年の収穫を同じ量で360に均分し、1日にその360分の1の量を使い、僧侶が増えたとか減ったとかに従って、改めて穀物を増減することをしまい。

その様なやり方で、普通の飯が準備できるような場合には飯を作り、飯を炊くのに不足のような場合には粥を作り、粥を作るのにどうにも足らない場合には重湯を作るがよい。新しい弟子が寺院に到着して師匠と面会の作法を行う場合にも湯茶を飲むだけで済ます。寺院の一箇所に茶飲み場所を作り、各人がそこに行って茶を飲むようにした。様々な煩わしい環境を極力整理して、ひたすら真理の探究(坐禅)ができるようにする必要があるからである。



              ―西嶋先生の話―                            
    --つづき
 
梅原猛さんは非常に長い事、西洋哲学を勉強された方であります。坐禅をやらないで、仏教の外側から西洋流の考え方で仏教を考えるとどう言う結論になるかと言う面で、非常にいい例に該当すると思われる訳であります。ですから西洋哲学と仏教の基本的な考え方とを引き比べてみますと、仏教の教えを理解するのに大変役に立つとそういう問題がある訳であります。
 
今日は欲望と言う問題について、どの様に考えていったらいいかと言う問題を取り上げてみたいと思います。と言いますのは、梅原猛さんは道元禅師に対して大変近寄り難い人だという感想を述べております。なぜ近寄り難い人かと言うと、梅原猛さんの場合には煩悩無尽(欲望が尽きない)の人であるからと。ところが梅原猛さんが煩悩無尽の人であるから、道元禅師に近寄り難いと言った背景には、道元禅師は煩悩無尽の人ではないと想像しておられるんではないかと見られる面がある訳です。

ただ仏教の立場からしますと、およそ人間である以上、煩悩のない人は一人もいないと言う事が原則であります。たとえば煩悩即菩薩(煩悩即ち真実)と言う言葉がある訳です。煩悩は今日の言葉で言えば欲望と理解しても、そう大きな間違いではないわけです。その欲望と言うものが真実と言うものと同じものだと言う主張が仏教にはあります。その事は言葉を換えて見ますと、欲望は我々が生きていると言う事実の裏側だ。

つまり我々が生きていると言う事や人生と言うものを考えていく場合に、生命と言うものがあるかと見つけ回ってみてもこれが生命だと言うようなものはつかまらない。生命と言うもの、我々が生きている事の事実をどういう点から知るかと言うと、ご飯を食べる、寝る等の極めて単純な事実が生きていると言う事の事実に他ならないわけであります。ですから生きていると言う事は欲望というものがある事と別の事ではない。そういう事実を仏教では「煩悩即菩提」と言う言葉で表現しています。
 
                           つづく--


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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