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正法眼蔵 行持(下) 39

潙山霊祐禅師は、百丈懐海禅師から授記(将来仏になるであろうと言う証明)を与えられてからただちに人里離れた剣しい潙山に行き、鳥や獣の仲間入りをして粗末な庵をつくってその庵の中で坐禅の修行をされた。

風雪を伴う厳しい生活であったけれども、それを厭う事なく栗の実を食料とした。立派な寺院もなく、それに伴う諸道具もなかった。しかしながら仏教徒として清い行いをし戒律を保持をすることは40年の久しきに及んだ。

後に潙山は国内でも有名な寺院となり、龍や象にも譬える事のできる様な優れた弟子たちが入れ替わり立ち代り寺院にやって来て修行をした。潙山霊祐禅師のように自分から寺院を建てようという気持ちを持たずに小さな庵を作って仏道修行をしていたことが後に立派な寺院が建つという結果につながった。

寺院を建てようと希望する場合でも、普通の人情を基礎にして何とか立派な寺院を建てたいという気持ちで焦ってはならない。立派な寺院を建てたいと思ったならば、まず仏道修行者としての清い行いを保持し戒律を守るという事をしっかりやるべきである。仏道修行が一所懸命行われている限り寺院としての立派な建物がなくとも、そこは古より非常に優れた仏道修行者の道場である。古代インドにおいては、露地や木の下で仏道修行をしたという仕来りが遠い昔から今日に伝えられている。

この様な形で清い行為が行われ戒律が保持されている場所というものは、永遠に真実を求めるための限られた場所という事になるのである。たった一人でも清い行いをし戒律を保持すると言う生活があったならば、その場所は真実を得た人々の道場としして後世に伝えられるであろう。

末世における愚かな我々は無駄に寺院を立派に造る事に努力して、そのために疲れきってしまうという事があってはならない。釈尊以来代々の祖師方は決して立派な寺院を造る事を念願としておられなかった。まだ自分の仏道修行が未熟で自分自身の目の玉さえはっきり見える様になっていない境地でありながら、やたらに立派な寺院を造ろうとする事は沢山の真実を得られた方々のために寺院を造って捧げようと言う気持ちからするのではない。それは自分自身が名誉や利得を貪るための住み家を造ろうとしているに過ぎない。



          ―西嶋先生にある人が質問した― 

質問
一日中坐禅をしているなんて続きませんよね。少なくとも、坐禅が好きになるとか嬉しくなるなんて考えは出ないと思いますが・・・。

先生
毎日少しずつ坐って坐禅を好きになるほうが必要だと思います。とにかく毎日やめないという事、それが一番大事です。だから何時間もやって365日続く人はそりゃ結構だけど、我々は社会生活を送っているわけだから、一日のうち2時間も3時間も毎日やるわけには行かないわけでね。
    
私は合計毎日1時間やって、365日1日も欠かさなければ最高の仏道修行だと思います。これは自分の経験から言うわけです。今日では社会の生産力が非常に進んで来たから、1日に1時間位は坐禅の時間を取る事が出来るようになった。そういう点では、仏道が非常に盛んになる素地はできて来たと見ている訳です。
    
また人がやるかやらないかが大事な事でね。時間はあるけれどもやらないと言う場合もあるし、1時間そんなもったいないと言う考え方もあるから、それはいろいろ事情はあると思います。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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