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正法眼蔵 行持(下) 38

長慶の慧陵禅師は雪峰義存禅師の教団における長年の仏道修行者であった。

雪峰義存禅師と玄沙師備禅師との間を往復して仏道修行する事が29年に及んだ。その間に坐禅用の坐蒲を坐禅によって20枚破った。今日でも坐禅を愛好する人々は、この長慶慧陵禅師の例を挙げて過去における先輩方の優れた例としている。その様に長慶慧陵禅師を慕う人は多いけれども同じ様な状態に達する人は少ない。

長慶慧陵禅師この様な修行をされたところから、30年間の努力が決して無駄にならず、あるとき簾を巻き上げていた時に、突然、仏道の真実がどういうものであるかと言う事に気がついた。長慶慧陵禅師は30年の間一度も郷里に帰らず、親族にあった事もなく、隣に坐っている同輩とも談笑する事もせずに、ただ専一に坐禅に励んだ。この様に長慶慧陵禅師の仏道修行は30年間に及んだ。

疑問や停滞を真正面から受け止め、いい加減に棚上げすることをしないことが30年間に及んだという事は、仏道修行者の例としてははずす事の出来ない非常に偉大な素質の人であるという事ができる。

この長慶慧陵禅師の仏道修行における志を伝え聞くにあたっては、ある場合には経典を読む事によってその事が知れる。仏道修行に関連して、本当に願わしい事を請い願い恥ずべき事を恥と考える様な人々は、この長慶慧陵禅師と同じ境地に出会うと言う事があるであろう。

しかしながら我々の日常生活の実情というものを考えてみるならば、多くの人々は真実を知りたいと言う気持ちがどこにも見当たらず、自分の行動を規律する点でも欠けている。だから、無駄に名誉や利得に縛られて仏道修行が十分に出来ないと言う事が言えるのである。



              ―西嶋先生の話―    
    --つづき        

勿論その後で判断が正しいか正しくないか色々と材料を寄せ集めて検討する必要があるけれども、我々の判断というものは色々と長い事考えた末にやっと出てくるものではなくて、一番最初にどうしたらいいか「パッ」と出て来てしまうものである。そういう直観的な正しい判断を生む根源を仏道では智慧と言う。直観的で現実的な判断が我々の日常生活の基礎であると言うのが釈尊の教えです。

この事も我々が日常生活を生きていく上にはかなり大切な事である。我々の心の中にありがちな善玉と悪玉という二つのものを一つに重ねて無くしてしまう修行が坐禅という事になる。だから我々が、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして坐っておる時は善も悪も無い状態である。善も悪も無い状態というのは、極めて現実的な世界に生きている状態なのである。

その極めて現実的な世界とは、もっと具体的に言えば目の前に見える柱、エアコンの回る音、外で聞こえる車の警笛など極めて単純な世界に我々は生きていると言う事を坐禅をしている時に初めて感ずる。坐禅をしていない時には、色々な考え方を持って色々な事を考えているから、そういう極めて複雑な世界に我々は生きていると思い込んでいる。

ただ複雑な世界というのは、頭で考えた世界であって自分が作った世界である。だから本当に現実に生きておる世界とは別なわけです。我々は現実の世界に生きているのだから、最も現実的な立場で最も現実的な判断を下さなければならんという問題がある。その点で仏教的な考え方というものは、今後の時代にかなり役に立つ考え方として我々の日常生活に生きてくる。そう見て間違いないと考えられるわけです。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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