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正法眼蔵 行持(下) 37

雪峰義存禅師と玄沙師備禅師との問答は続きます。

そしてついに玄沙師備禅師と雪峰義存禅師は象骨山に登り協力して寺院を造ったところ、仏道の奥義を知りたいと願うたくさんの修行者が寺院に集って来た。ここでのやり方は、玄沙師備禅師、雪峰義存禅師の部屋を弟子が訪ね、疑問に思っている事を質問させるやり方が、朝となく夜となく一日中続くという状態であった。

そこでたくさんの地方から仏道を勉強する人々が集まって来て、それぞれ自分のまだ決しかねている問題について、例外なしに玄沙師備禅師、雪峰義存禅師に教えを請うたが、雪峰義存禅師は質問を受ける度に「玄沙師備禅師に聞いたらよかろう」と言われた。

それに対して玄沙師備禅師は、自分からその弟子たちの質問に答えるという仕事にあたり、他の人に任せるという事なしに一所懸命に努力された。玄沙師備禅師に普通の人からはるかにとびぬけた行いというものがない限り、このような行動はとれなかったはずである。坐禅を一日中しているという日常生活のあり方というものは、中々他の人々にはまねのできない行いである。

同じように仏道修行をしている場合でも、説法や形式だけの仏教行事に駆けずり回っている事例は多いが、一日中坐禅を楽しんでいるという人は中々まれな例である。現に晩まきながら仏道を学びつつある我々としては、これから自分の生きるべき時間が少ないことを恐れて、一日中坐禅をするという努力をすべきである。



              ―西嶋先生の話―

我々は子供の頃から学校で色々と教えられて来ている。「良心や善心というものは大切で、それがなくては人間ではない」と。ところが仏教では、良心や善心というものが目立って自分の心の中に感じられるうちはまだまだ本当の自分が出てきていないと言う。その事がどういう点で実際の生活に役立つかと言うと、実際生活でいろんな判断をするときに一番正しい現実的な判断とは、自分の心の中にある良心と悪心とが一つに重なった時に出てくる。
   
良心と悪心とが別々にあるうちは、本来はこの様にしなければならないがと言う事を自分の心の中で考える。ところがあまり良心的にばかり考えると現実に合わなくなる場合もある。実際には損をしてしまうと言う問題に出くわす。そうすると良心に従いたいんだけれども実際に従うと損をしてしまう。そういう問題がどうしてもある。そうすると判断する場合、どっちにしようかなあと言ってウロウロ迷う。

たいていの場合は良心だけに従っていては、とても飯が食っていけない。そうかといって、良心にそむくのも気がとがめると言う事で、何となくどっちつかずの中途半端な判断をするというのが大体普通の生き方である。ところが心の中における善玉と悪玉とが一つに重なって消えてしまうと、判断する場合にすぐ現実的な判断が出来る。それはどう言う事かというと物事を空にする。

頭の中で良心を基準にして考えると言う事もなくなったし、そうかと言ってただ損得だけを基準にした考え方もしなくなったという状態が生まれてきた時に初めて、我々は心の中に善玉と悪玉がなくなった状態を感じる。そういう、二つに分かれた考え方がなくなった時には決断が非常に早い。問題をどう考えようかと思うとすぐ直観的にパッと答えが出てくる。
                         つづく--


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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