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正法眼蔵 行持(下) 36

福州の出身である玄沙宗一大師は僧名は師備、俗姓は謝と言い幼い時から釣りをすることが好きであった。小船を南台江と言う河に浮かべて、多くの漁師たちと一緒に魚をとる仕事を長年にわたってやってきた。ところが唐の時代の感通年間のはじめ、年齢もようやく30才となった頃、急に俗世間を捨てて僧侶になりたいと言う気持を起こし小船を捨てて、芙蓉山におられた霊訓禅師の教団に入って頭を剃った。

それから予章開元寺の道玄律師について具足戒(僧侶になるための完全な戒律)を受けた。常に粗末な衣服をまとい、粗末な履物を履いて、食事も多くはとらず生命が保てる程度であった。そして一日中坐禅をしているという生活をしていた。教団の人々はいずれも、玄沙師備禅師の生活を非常に珍しい例と考えていた。

雪峰義存禅師とは、本来仏道を勉強する上における仲の良い友人で会あって、お互いに親しく交際していた状況というものは、師匠と弟子との間柄のようであった。雪峰義存禅師はその玄沙師備禅師の厳しい修行のやり方を眺めて乞食行と呼んでいた。

ある日、玄沙師備禅師に雪峰義存禅師が問う「乞食行に徹した師備とは一体何者だ」と。師備禅師言う「他人様の言う事では、なかなか納得しない困った奴です」
  
※西嶋先生解説
この問答は仏道を勉強していく上でかなり大切な事であります。大抵の人は人の言った事は本当だと思いがちな場合が多いわけであります。特に偉い人、有名な人が言った言葉については、あの人の言った事だから間違いないと普通は考える訳でありますが、師備禅師のように徹底して真実を得ようとする人にとっては、人の言った事を本当か嘘か確かめた上で、本当だったら信用すると言う生き方をしていた。

本文に戻ります。
また別の日に雪峰禅師が問う「乞食行に徹した師備よ。お前さんは旅の支度をしてあちこちの様々の寺院を歴訪して、たくさんの偉い人々に出会って仏道修行をさらに深めるという事をなぜしないのか」と。

師備禅師言う「達磨大師は自分で来ようと思って中国にわざわざ来られたわけではない。当時の歴史的な事情に即して自然に結果としては中国に来られた。達磨大師の弟子である慧可大師は当時の歴史的な事情の成り行きに素直に従って、インドには行かれなかった」と。 

※西嶋先生解説
人間は誰でも自分の現在いる場所が自分の本来のいるべき場所であって、あそこへ行ったならば、もうちょっといい事があるかも知れないと言うふうな事を考えて、フワフワと楽観的な動きをすると結果は決してよくない。そういう事も含めて、仏道修行は現在自分がいる場所で徹底してやればいいんだと。

雪峰義存禅師は玄沙師備禅師の返事に大いに頷かれた。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
私なら私が出家をしなければ、在家だけでいたならば、それこそいくら一所懸命坐禅をしたって、出家という一つの段階を踏まなければ徹底はできませんね。

先生
そこで「出家」という言葉の内容が問題になってくるわけです。出家というのは何かという事になりますと、家庭生活の渦の中から抜け出すとか社会生活の渦の中から抜け出して欲得を離れて、実体を勉強することですよ。だからそういう点では、袈裟を着ているとか着ていないとかという事よりも、本当のことを知りたいという気持ちを持つかどうかという事が、出家とそうでないという事の問題に関しては大事なんです。

形の問題も勿論ありますけれども、その他に自分の生活態度がどうかという問題があるわけです。損得を離れて人がどう噂しているかという事を問題にせず、仏道とは何かを一所懸命に勉強するという事をやりさえするならば誰でも出家だと言えるわけです。まして毎日、手を組み、足を組み、背骨を伸ばしてジ-ッと坐っておるならば、その状態というものは欲抜きなんですよ。

名誉を得るとか得ないとかという事と無関係。ただ釈尊の教えを自分の体で味わっておるというのが坐禅の実体ですから、坐禅をしている限り出家にならざるを得ない、形がどうであろうとも。家庭生活を離れ、世間の生活を離れて、真実を一所懸命に勉強している状態だとみて間違いないと、こういう事が言えると思います。

質問
そうしますと世間を離れるという事は、例えばお寺に行ってお坊さんにならなくても、という事でございますか。

先生
そういう事です。ですから仏道修行についても、時代がたつに従って状況が変わってきているという事が言えると思います。鎌倉時代の初期には社会生活の生産力が非常に低かったものですから、世の中の誰でもが坐禅をするというほど社会的な余裕はなかったわけですよ。

そうすると、環境に恵まれた人たちが少数お寺に行って僧侶になって、仏道を勉強するという事が行われたという事になるわけですから、今日の様に生産力が進んで、誰でもが一日の内30分や1時間の坐禅の時間を持てるという状況になりますと、「出家」という言葉もそれなりに変わって来ざるを得ないという事があると思います。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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