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正法眼蔵 行持(下) 35

大医道信禅師について道元禅師の注釈は続きます。

銘記せよ。大医道信禅師の言葉から、この世の中にある全てのものは、それぞれ自由な立場で、現に他のものから何も束縛されないで存在している。この世の中に存在するすべてのものが、仏教で説かれるように空であり存在するかどうか必ずしも断定できないと言う考え方もあるけれども、単にそれだけが真実と言うわけではない。

我々が目の前に見ている様々な事物、たとえば机や畳や柱、その他一切のものが具体的に我々の目で見えている通りのものだと言う事がないわけではない。ただ机や畳や柱にしても、あるいは外の街にしても、一切のものがそれぞれ独自の立場で、他のものから拘束されずに現に存在していると言うのが、我々の生きている世界のあり方である。

大医道信禅師については、亡くなって塔に入る以前の行いというものがあったし、亡くなって塔に入られてからの行いというものもあった。生きているものは必ず死ぬと考えることは非常に立場が狭い考えである。大医道信禅師にしても、生きておられる間に非常に優れた行いがあったという事が後の世までも語り伝えられている。西暦643年に亡くなったけれども、それから以降は他の人の話題に上がらず完全にこの世の中から消え去ってしまったというふうにだけ考えるならば、やはり小さな限られた範囲の見方でしかない。

仏道を勉強する場合には、小さな範囲に限定されたものの見方、考え方というものを離れなければならない。亡くなった後も、永遠の生命を持って長い時代にわたって語り継がれる人もあろう。また亡くなった人が現に我々に働きかけて、我々に仏道修行がどう言うものであるかと言う事を教えられる、と言う例もあるのである。

※西嶋先生解説  
道元禅師のお書きになったこの「正法眼蔵」についても、道元禅師が亡くなってからもう7、800年経っておるわけでありますが、7、800年たった後にも、いまだ我々に対して非常に大きな影響を与えうる本として残されているという事は、道元禅師が単に54年間生きられたという事だけが道元禅師の生涯ではなかった、という事にもなる訳であります。



          ―西嶋先生にある人が質問した― 

質問
生命というものは、寿命が尽きた時それが消えるという説と、それから今ここで話題になる事をもって生命が生きてくる、長く続いているという説がありますが・・・。

先生
道元禅師の思想、あるいは仏教思想というのは、一つのものを必ず二つの見方で捉えていくわけです。だからそういう点では、人間には生命というものがあって、血液が循環しておる状態が循環しなくなる状態になる、移っていく、そういう瞬間を迎えるという事も事実だということをはっきり言っておられるわけであります。

ただそれと同時に、たとえば大医道信禅師の様に非常に優れた仏道修行の生涯を過ごされた方にとっては、後の弟子たち、あるいはそれより時代が遥かに下がって、たとえば2017年に仏道修行をしている人々も大医道信禅師という方おられて優れた仏道修行をしたという事を書籍で読んでその事を知るならば、2017年にも大医道信禅師は立派に生きておられる、そういう事も言える。

そういう二つの見方が出来るから、生きておって決して死ぬものではないと言う捉え方もあると同時に、また、いつまでも生きているという事ではなしに、血液の循環と言うものは一定の時点で必ず止まるものであるという面もあるし、そう言う両面から実態というものは掴んでていかないと、この世の中の本当の意味は分かってこない。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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