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正法眼蔵 行持(下) 33

摩訶迦葉尊者から数えて第31代目の仏教教団の指導者である大医道信禅師は14才の時に、中国の第3代目の仏教教団の指導者である鑑智僧璨禅師にお会いして以来、鑑智僧璨禅師に仕えて努力する事が9年間に及んだ。そして釈尊以来の伝統を鑑智僧璨禅師から受け継いで以後は、心を乱す事はなしに、就眠についても極めて切り詰めた形の生活をして、脇腹を寝床につけて寝る事がなかったという状態が60年間続いた。

大医道信禅師はその教化の影響を、仲の悪い人に対しても、仲のいい人に対しても与えて、その徳の及ぶところが至るところに行き渡った。この大医道信禅師が中国における第4代目の教団指導者であった。

西暦634年に唐の太宗皇帝は大医道信禅師の仏道に関するすぐれた様子に興味を持ち、その人柄を見ようとして都に来るように命じた。しかし大医道信禅師は書面を奉って謙虚に辞退する事3回に及び、そして最後には病気を理由に辞退した。

そこで皇帝が4回目の使いを出すに当たって、使者に命じて言うには「もし言う事を聞かず都に来ないのであれば、その時は大医道信禅師の首を取って来い」と。そこで使者が大医道信禅師の寺に来て皇帝の趣旨を伝えてぜひ都に行くように諭したところが、大医道信禅師はもし皇帝がそのように言われるのであれば首を切られましょうという事で、即座に首を差し出して刀で早く切って欲しいという態度をした。その毅然とした態度はしっかりとして気高いものであった。

そこで使者は大医道信禅師の様子が普通の人とは違うと感じて、都に帰ってその有様を皇帝に申し上げた。そこで皇帝は大医道信禅師に対する尊敬の念をますます深め、価値の高い織物を贈って大医道信禅師が都に出たくないという志をそのまま遂げさせる事にした。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
どうもよくわからないのは、例えば達磨大師は527年に中国に行かれた。日本が平安時代になったのが800年代で、遣唐使でたくさん坊さんが唐にいきましたね。この坐禅というのは唐でいろんな帝王が尊んでいますね。それがどうして平安時代に日本に坐禅が伝わらなかったんでしょうか。 

先生
というよりも、中国に行かれた人々の目的が、経典を持ってくるとか、あるいは思想を持ってくるとかという事に関心がわりあい深かったという事情があったと思います。 

質問
坐禅なんか持ってきても評価されないという・・・。

先生   
というよりも、まだ仏道というものがそういうものだというところへ理解が言っていなかったんだと思います。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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