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正法眼蔵 行持(下) 32

石頭希遷禅師は石頭山に上がって大きな石の上に粗末な庵を造りそこで坐禅生活をしていた。昼夜となく寝るという機会が少なくて、坐禅をしない日というものはなかった。様々な人間のやらなければならない仕事を欠いたわけではなかったけれども、1日24時間の間、坐禅というものを欠かさず勤めて来た。

今日、青原行思禅師の流れをくむ人々が天下に広がって仏道を説いて様々の利益を与えている事は、石頭希遷禅師の偉大な力が幸いして、その清い行いや戒律の保持が固かったという事が原因となって、青原行思禅師の流れをくむ人々が今日天下に仏道を広めている結果になっているのである。

そしてその他に雲門禅師、法眼禅師の後継者がそれぞれ仏道を広めているけれども、その雲門禅師や法眼禅師と言う方々も、いずれも石頭希遷禅師の影響を受けて仏道を理解するに至った人々であり、いずれも石頭希遷禅師の孫弟子に当たる立場の人々である。



              ―西嶋先生の話―
    --つづき

それからもう一つ我々が現実を見ることの邪魔になる問題として、我々は習慣というものを持っているわけであります。過去にやった事が現在にも残り、また未来にも繋がるわけであります。その点では我々は昔あった事はいつまで変わらずに続くと思う癖がある訳であります。

そうすると、我々の人生や社会生活は毎日変わっている訳でありますが、そういう変化に対して「変わった」と言う認識を持たない。そうすると、昔の事がそのまま今でもある様に錯覚して、問題を考えていくと言う誤りを犯す場合が多いわけであります。

世の中はどんなに変わるかと言う一つの例としては、昭和20年東京は焼け野原になったわけであります。当時の焼け野原を見た経験からするならば、今日の東京がこれほど立派に復興すると言う事はとうてい想像できなかった訳であります。ただいつの間にか、少しずつ沢山の人間が努力に努力を重ねて今日の状態まで切り変わって来たという事。そうすると、現在もまたこれからどんなふうに変化して行くか想像もつかない程大きな変化を想像しなければならない訳であります。

しかし人間はそういう考え方をする事がわりあい下手な場合もある訳であります。昔の事がいつまでも変わらずにずっと続くものだと言う考え方で、昔の基準で現在を考える事がわりあい多い性格の人もあるわけであります。昔の事だけはよく覚えているけれども、今どうなっているかと言う事はあんまり見る事を好まない。だから「昔はよかった」という事ばかり言っているけれども、現在がどうなんだと言う事についてはあまり関心を持たないと言う生き方の人もある訳であります。

そういう点では、昔からの習慣づけられた状態をずっと持ち続けると言う性格が我々の反面にはある訳で、そういう生き方からしますと、やはり現実がいかに変化しやすいものであるかと言が事が中々わからない。そういう現実の変化がわからないと、その変化に即応できないと言う場面もあるわけです。ですから我々が現実を見るという場合には、何らかの考え方に惑わされないという事が一つ、同時に過去の習慣に固執しないという事がある訳であります。

その点で、我々がやっている坐禅は様々な考え方から脱け出す、それと同時に過去の習慣に固執すると言う状態からも脱け出す。そういうねらいでやっていると、こういう理解の仕方も出来ようかと思うわけであります。
                                        

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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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