トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 行持(下) 31

太祖慧可大師の説話について道元禅師の注釈はまだ続きます。

太祖慧可大師のお陰をもって釈尊が説かれた最高の正しい教えを見たり聞きする事ができた偉大な恩義と言うものは、およそ人間の姿をしている人にとっては誰がそれを忘れてよいという事があろう。これを忘れないという事がわれわれ各人における一生の宝であろう。この様な正しい行い戒律の保持を一所懸命にやって、それをやめる事がない体や骨は、生きている時にも死んでからも七宝によって飾られた美しい塔の中に収められて、すべての人々から一斉に供養を請ける資格を具えているのである。

この様に太祖慧可大師の例についても大きな恩義があるということが分って来たならば、決して草の葉の上の露のように儚い命を無駄に地面に落としてしまうという事をせずに、山のように大きな太祖慧可大師の徳を丁寧に報ずべきである。恩に報ずるためには、日常生活における行いを清くし、戒律を保持をする事に努力するのである。この様な清い行いをし、戒律を保持することから生まれて来る功徳というものは、自分自身が仏教界における先輩や真実を得た人々と全く同じ状態において清い行いをし、戒律を保持するという事に他ならない。

達磨大師にしても、太祖慧可大師もにしてもかつて寺院を新しく建てた事はないし、草を刈って寺院創建の下準備をされた事もなかった。また中国における第3番目の仏教教団の指導者である鑑智僧璨禅師も、第4番目の仏教教団の指導者である大医道信禅師も同じ様であった。さらに第5番目の仏教教団の指導者である大満弘忍禅師や第5番目の仏教教団の指導者である大鑑慧能禅師も自分から寺院を建てるという事はせず、青原行思禅師や南嶽懐譲禅師も寺院を建てることをされなかった。

※西嶋先生解説
なぜ寺院を建てなかったかというと、そういう暇がなかった。寺院を建てるというふうな仏道修行のためにはにはどっちでもいいような仕事に時間をつぶすことなしに、日常生活を一生懸命に送られたという事を言っておられるわけであります。



              ―西嶋先生の話―
    --つづき

しかし「人を見たら泥棒と思え」と言う考え方だけで社会生活がうまくいくかと言うと中々うまくいかない面がある。自分の上司に接する場合でも「人を見たら泥棒と思え」と言う哲学に徹していたら安心して仕事が出来ない。警戒に警戒を重ねて仕事にならないと、そういう問題もある訳であります。また部下に対しても同じ事で「自分の部下は信用が置けないんだ」と言う哲学に徹して仕事をしていると、自分一人が孤立してしまい何も出来ないと、そういう問題もある訳であります。
  
だから「人を見たら泥棒と思え」と言う哲学は、中々人生の実態をうがった優れた教えではありますが、しかしそれが全部かと言うと中々そうは行かない。そういう点では、警戒に警戒を重ねて生きていくという事も一面では大切でありますが、社会生活がうまくいかない、そう言う事もある訳であります。

それからもう一つの考え方としては、「渡る世間に鬼はない」ということ。これは先ほどの諺「人を見たら泥棒と思え」とは全く反対の考え方でありますが実情に合っている面がある訳であります。人を信用して一緒にやっていくと仕事がうまくいく。そういう信頼関係がないと中々うまくいかない。自分が相手の人の事を思って動くと、相手の人も自分に対して親切にしてくれるというふうな人間の間柄と言うのは相互関係がありますから「渡る世間に鬼はない」と言う考え方もまさに正しい教えであります。

ただ、そのどちらかの考え方だけを信奉して生きようとすると間違いを起こしやすいという事がある訳であります。そういう例から見ても我々は色んな考え方を持っている訳でありますが、その一つの考え方に固執してそれが絶対だと考えるとなかなか現実に合わないと言う問題がある訳でありまして、その点仏教という考え方は、いろんな間違った考え方を、「これも正しくない」「これも正しくない」と一つ一つ減らしていって、一番最後に残ったどうしても疑う事の出来ない教えを仏教として釈尊が残されたと、そういう見方が出来るわけであります。

                            つづく--


ご訪問ありがとうございます。よろしければクリックお願いします。



関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

最近の記事

最近のコメント

リンク

カテゴリ

フリーエリア

坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

FC2カウンタ-