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正法眼蔵 行持(下) 30

太祖慧可大師の説話について道元禅師の注釈は続きます。

過去における沢山の祖師方の清い行いや戒律の保持によって形付けられた我々の体を、無駄に妻子の下僕のような立場に置き、妻子の玩弄に任せて戒律を破ったり、堕落したりして行くことを残念に思わないという事は悲しむべきことであり、恥かしいことではないか。

またものの考え方が誤っていたり狂っている事が原因になって、羅刹(鬼・悪魔)に譬える事のできる名誉や利得に体や命を任せる場合がある。しかし名誉や利得こそは、これより大きな敵はいないほどの大敵である。そしてもし名誉や利得を大切に思うならば、本当の意味で名誉や利得を大切にすべきである。

名誉や利得を本当の意味で大切にするということは、やがては仏道修行をして仏祖になる可能性を持っている我々の体や命を名誉や利得の影響において破壊させるという事をやらない事である。また妻や子や親族が大切であると考えるならば、尊い自分の体や命を仏道修行のために費やして、自分の人生がどう言うものであるかと言う事を把んで、妻や子や親族のために仏道を教えてやるという事を考えるべきである。

名誉や利得と言うものは夢幻のごとく空しく儚いものだと学んではならない。名誉や利得と言えども、これを学ぶには一般の人と同じように学ぶべきである。名誉や利得というものが持っている価値を認めることなしに、罪を犯してその報いを重ねるという事があってはならない。

※西嶋先生解説
ここのところは非常に大切なことで、普通、名利や利得を問題にする場合に、よく名誉や利得は汚らわしいものだと思い、もし手に入っても投げ出して捨てなきゃならんと思う。だけれども、道元禅師は決してそんなことは言っておられない。名利や利得は空なものであって、有っても無くてもどっちでも同じものだというふうに勉強すべきものではない。どういうふうに勉強するかというと、普通の人が名誉や利得を考えると同じような立場で、名誉とは何か、利得とは何かという事を考えるべきである。

この辺が道元禅師の思想の意味の深いところで、ふつう宗教というと「いやあ、名誉とか利得なんて言うのはわしは問題にしない。そんなものはもし得ても捨ててしまう」というふうな心掛けを説く人が多いけれども、我々の人生というのはそんな浅はかなものではない。だからそういう点では人生において名誉というものがどういう意味を持っておるか、経済的な利得というものがどういう意味を持っておるかという事を十分に理解したうえで、人生問題を考えていかなきゃならんという面があるわけであります。

本文に戻ります。
仏道を学ぶ上での正しい見方を基準として、広く諸方面のことを観察するに当たっては、このような態度で学ぶべきである。一般社会でも人情の豊かな人は、金銀や珍しい玩弄物を人から貰った場合にはやはりその恩に報いる。また他人から優しい言葉や耳ざわりのいい言葉をかけられた場合には、やはりその恩に報いるためにと一所懸命努力する。




              ―西嶋先生の話―
  
仏道を勉強していく一つの目的には、現実がよく見える様になる言う事があると思います。現実がよく見える様になると、あまり大きな間違いは犯さなくなると言う事があるわけであります。我々は現実がよく見えている様で、中々見切れないと言う問題がある様であります。我々は現実の中に生きているんだから、ありのまま、そのままに見ればいいんであるから、現実を見る事は決して難しいものとは思えない訳であります。
  
しかし実際問題としては、中々難しい面がある様であります。なぜ現実がありのまま、そのままに見えないかと言うと、二つの理由があります。一つには、我々の持っている考えに誤魔化されると言う事があると思います。我々は頭の働きが他の動物より優れているから人間としての文化を持っている訳でありますが、そういう頭がよく働くという事がまた逆に色々な考え方を頭に持って、それが我々の判断を引きずり回すために現実がありのまま、そのままに見えないという恐れがある訳であります。

例えばその考えと言うのはどんな事かと言いますと、江戸時代に出来た諺だと思いますが、人を見る見方に対して二つの見方がある訳であります。まず一つ目の諺は「人を見たら泥棒と思え」です。これは相当徹底した哲学。この「人を見たら泥棒と思え」と言う考え方は、中々実際問題では役に立つ面があるんだと思うわけです。最近新聞を賑わしている振り込め詐欺の問題などは「人を見たら泥棒と思え」と言う哲学を頭にしっかり置いておかないと中々防ぎ切れない問題かもしれない。
  
                        つづく--


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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