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正法眼蔵 行持(下) 29

太祖慧可大師の説話について道元禅師の注釈は続きます。

太祖慧可大師の恩義に報いるに当たっては、体や命を差し出してもなお不足であるであろう。一つの国、一つの城を差し出しても決して十分とはいえない。国や城は他人に奪われる事もあれば親子の間で譲ることもあり得る。

また体や命と言えども、いつ失われるかわからないものであり、主君のために命を捨てなければならない場合もあるし、正しくない教えの為に体や命を任せるという場合もあり得る。太祖慧可大師の恩義に報いるに当たって体や命を捧げてその恩に報いるとか、国や城を捧げてその恩に報いると考えてみてもそれは正しい事ではあるまい。

何によって太祖慧可大師の恩義に報いたらいいかというと、我々自身が一日一日の行いについて仏道に従って正しく過ごしていくという事が、太祖慧可大師の恩義に報いる正しい道であろう。その様な主張の趣旨とは、与えられている毎日の生命というものを無駄にせず、自分自身の個人的な目的に使うことなしに、仏道に従って修行していくという事に他ならない。

我々は現に命を与えられて生きているけれども、その命を与えられているのはなぜかという事を考えてみると、過去において太祖慧可大師が清い行いをし戒律の保持をされた結果に他ならない。過去における太祖慧可大師ご自身の優れた行いがあればこそ、今日の生命があり得ているのである。太祖慧可大師の過去の行いに対して我々は報いなければならない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―
 
質問
「自分がない」と言うのは、どう言う事なんでしょか。

先生
苦諦的な考え方からすれば「自分がある」わけです そうするとねじり鉢巻で「俺が、俺が」という事で頑張る訳です。それと同時に「俺のものが増えればいい、人のものが減ればいい」とまでは考えなくても(笑)「俺のものが増えればいい」と言う考え方も出て来るわけです。
     
集諦的な考え方からすれば「自分はない」わけです。客観的な立場から考えますと、物の寄り集まりじゃないかと言う考え方をする。そうすると自分と言う様なものは、どこにもないんではないかと言う考え方も成り立つわけです。

滅諦的な考え方からすれば、とにかく自分が働らかなくてはどうにもならない。朝起きるとご飯を食べて働いて、昼ごはんを食べてまた働いて、とにかくご飯を食べたり働いたりと言う事で、とにかくボンヤリはしていられないと言うのが我々の人生です。そうすると、自分があるのかもしれないし、ないのかもしれない、そんな事はハッキリしなくなってしまう。とにかく、夢中に生きる人生があるだけだ、と言う事も言える訳です。

道諦的な考え方からすると、理屈ではどっちとも決められない。苦諦の解釈であれば、自分と言うものははっきりあるし、集諦の解釈だと、自分と言うものはない、滅諦の解釈では、自分があるとも言えるしないとも言える、道諦の解釈では、人生の実態と言うものは理屈ではない、だからその理屈ではないものを把むために坐禅があるんだと、そう言う事になるわけです。
   

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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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