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正法眼蔵 行持(下) 22

香厳智閑禅師の言葉について道元禅師の注釈はさらに続きます。        

かつて西インドの国においては、人間の髑髏(しゃれこうべ)を売り買いするバラモン僧のしきたりがあったと昔から伝えられている。これは生前に真実を聞いたことの価値が大きいことを尊重した実例である。現に真実のために体を捨て命を捨てるという事をしないならば、釈尊の教えを聞いた事に伴う価値というものが具わって来ない。

しかしながら、体や命を惜しむ事なく釈尊の教えを聞くためにそれを捨てるという事が行われるならば、その釈尊の教えを聞いたという事がやがて大きな成果となって、そのために捨てられた体や命に伴う髑髏は人々から尊敬されるのである。

現に真実のために捨てる事のなかった髑髏は、後に雨風にさらされて野外に捨て置かれても誰がそのような髑髏を礼拝するであろう。誰がその髑髏を価値あるものとして売り買いの対象にすることがあろう。むしろ現在、人間として生き、魂を持っていること自体が後悔して残念に思う結果となるであろう。

経典の中にも、鬼が自分のかつての髑髏を打ったという話が伝えられているし、神が自分の過去の髑髏を礼拝したという話も伝えられている。結局のところ命が尽きてただ単に塵や土に変わってしまう時のことを考えれば、現にその体や命を愛惜していてよい理由は何もなく、かえって将来残念に思う事があるだけである。しかも残念に感じたからと言って、髑髏がどのような感慨を持って見られるかという事は、それぞれそれを見る人の涙の性質が違うのと同じように様々であろう。



              ―西嶋先生の話―

「般若心経」について今日いろいろな解釈が沢山の人によって書かれております。仏教を勉強する場合、普通は経典を読んで色々な注釈書を読んで、経典の意味がわかれば仏道がわかるはずだと一所懸命勉強しているわけです。しかしそれは言葉の上での説明であって「仏道」とはそういう理屈ではない。

達磨大師がインドから中国に坐禅を伝えた時には、すでに「般若心経」など沢山の経典はインドから中国に伝わっていた。しかし達磨大師がインドから中国に坐禅を伝えた事によって、初めて釈尊の教えが理解できるようになったと道元禅師は考え、釈尊の教えは坐禅の中に入っていると言われた。

だから経典に対する理解の仕方についても、道元禅師は独特の考え方をしておられた。今日、情報は非常に多くあるわけです。その情報のどれが正しいか、どれが誤っているかを捉える立場というものがどうしても必要になる。そういう点で、道元禅師は頭の中に文字や知識を詰め込むことが我々の本当の理解に役立つのではない。足を組み、手を組み、背骨を伸ばして、ジ-ッとしている状態そのものから本当のものが生まれてくる。

「般若心経」の一々の意味というものを解釈するよりも、足を組み、手を組み、背骨を伸ばしてジ-ッとしている瞬間を持つほうが、仏道を身に付ける一番の早道だ。このように道元禅師は述べられた。



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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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