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正法眼蔵 行持(下) 21

香厳智閑禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

過去における真実を得られた方々が一系に釈尊の教えを伝承して来る事がなかったならば、釈尊の教えがどうして今日に伝わる事があり得たであろう。ほんの一つの言葉を教えられた場合でも、その一つの言葉を教えられた恩義に報いなければならないし、ほんの一つの教えを受けた場合でも、その一つの教えを受けた恩義に必ず報いなければならない。

まして「正法眼蔵」(釈尊の説かれた教えの正しい眼目の所在、最高の偉大な教え)というものを受けた大恩というものは、この恩に報い感謝せずにおられようか。その報謝のためには、たった一日の中にガンジス河の砂にもたとえることのできるような無数の体や命をも捨てることを願うべきである。仮に我々が釈尊の教えのために命を捨て体を捨てたとするならば、代々の我々は逆に、その釈尊の教えのために捨てた体なり命なりを礼拝し、それに供物を捧げるべきである。

この様に釈尊の教えのために捨てられた体については、沢山の神々や龍神などもいずれもその屍を敬い尊重し、それを守り、それを褒め称えるであろう。なぜならば、この宇宙の中における真理に関する基本的な理論というものはその筋道が一定していて、それ以外の事態というものは起こり得ないからである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―
    --つづき
質問
坐禅の場所なんですけども、例えば壁に向かうという事。私の場合は朝お灯明を上げながらやるわけなんですけれども。いろいろございますね。そういうので一番いいい所ってうのはあるんですか。

先生
壁に向かうというのは、あまり刺激的なものが何もないという事があるわけですよね。だからそういう点では、例えば赤い色なんかを目の前に見ながら坐りますと、気持ちが落ち着かないという事がはっきりありますね。だからあまり刺激的な色のないところの方がいい。だから壁に向かうというのはそういう意味があると思います。

質問
例えば蝋燭に明かりをともしてお線香を立ててやるよりは、どちらかというと・・・。

先生
そう、明かりをともしたり、お線香を立てたりという事はもちろん結構ですが、なるべく刺激の少ないような状況の方がいいという事は言えます。

質問
例えばですね、ちょっとくどくなるんですけれども、私の場合は蝋燭とかお線香の前の方が安心するんですが、壁に向かって坐禅をしていると、何かいろいろ映るって言うか、いろいろ見えるんですね。だからかえってそちらの方がよくないんじゃないかなと・・・。

先生
いろんなものが出てきてそれがまた消えていくと言うのが、坐禅の修行の過程だと思います。だから精神が集中して何も出てこないという事よりもいろんなものが出てきて、それが全部できってしまうという事が坐禅と言うものの一つの意味だと思います。その点では無念無想というような事がねらいではなしに、いろんな出て来るものは出てしまうと言う様な事も坐禅の中身として必要だと思いますからね。だからいろんな想念が出て来る事を気にする必要はないと言う事が言えると思います。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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