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正法眼蔵 行持(下) 20

香厳智閑禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

かつて釈尊は、七種類の価値のある宝玉、たくさんの子供、立派な宮殿を何の躊躇もなく捨ててしまった。その捨てる際の様子というものは、涙や唾を捨てる、あるいは糞や土を捨てるという様子と異ならなかった。これらのやり方というものは、いずれも過去から現在に至るまでの沢山の真実を得られた方々が、それ以前に生まれた真実を得られた方々に対しての恩に報ずるやり方に他ならない。

病にかかった雀でさえ楊宝と言う人に助けられた恩を忘れず、価値ある白い環を楊宝に与え、その価値のある白い環が後に楊宝を高い地位に上がらせるという形で恩に報いることができたという例もある。また孔愉という人が窮地に追い込まれた亀を助けたところ、その亀が後に恩返しをして、孔愉が余不亭という非常に高い役職に就いたという例も伝えられている。

雀や亀のような畜類でさえ助けられた恩を返したという例が伝えられているけれども、もしわれわれ人間が達磨大師がインドから遥々と中国に本当の仏道を伝えられたことに対する恩義を忘れるようであるならば、動物よりも劣っていると考えざるを得ないのである。悲しいことではなかろうか。

今、我々が仏道に出会い釈尊の教えを聞くという事は、過去において真実を得られた沢山の方々が、それぞれ清い行いをし、戒律を保持してこられた慈悲にあふれた恩義によるものである。


           
          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
講義の事と違うんで恐縮なんですが、ここへきて坐禅をやるときは先生が鐘を打つまでの一定の時間、とにかくそわそわしていようといまいと坐っているわけです。自分の家でやると、そういうとき時々諦めてやめてしまったり、あるいは決めたんだからと思ってその時間まで何となく「早く時間がたたないかな」と思いながら坐っている。そんなのでいいのか、やめてしまった方がいいんですか、その辺はどうなんですか。

先生
その点は、決めた時間はやるという方がいいですね。調子が悪いと思ってやめると、無限にやめちゃうわけです。「あ、調子が悪い、やめた」(笑)っと。毎日そういう事になるよりは、やっぱり決めた時間が来るまでは、調子がよかろうと悪かろうとやるという事が必要ですよね。

質問
気が散っちゃってどうにもならないときがあるわけですね。

先生
気が散る、散らないというのは、本人がそう感じるだけで、坐禅そのものの姿に自分の体がなっていることは疑問の余地がないわけだから、自分がうまくいっている、うまくいってないと感ずる、感じないかに関わらず、坐禅は坐禅だというふうに理解して間違いない。だから、調子が悪くても、坐禅としての価値がないというようなことは絶対にないわけで、調子が悪いと自分では思っていても、坐禅としての意味は十分にあるとみていいわけですね。だから調子が悪くても我慢してやるという事になる。

                        つづく--


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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