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正法眼蔵 行持(下) 19

香厳智閑禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

静かに考えてみるがよい。仮に釈尊の正しい教えというものが世の中に流布していない時代には、体や命を釈尊の正しい教えのために投げ捨てることを願ったとしても、その様な機会にめぐり合う事はできず、差し当たってはその釈尊の正しい教えに出会ったところの現在の我々と同じような状態を願ったことであろう。

そしてせっかく釈尊の正しい教えに出会っておりながら、体を惜しみ、命を惜しんで捨てないという事が仮にあるならば、その我々を恥ずかしいと思うという事があってしかるべきである。このように考えてくると、インドからはるばる中国に本当の仏道を伝えられた達磨大師の偉大な恩義に報いるためには、一日一日の我々の行いというものを清くし、戒律を保持するという事に努力する以外にはない。自分自身の体や命を大切に考えるよりも、法のために一日一日を清く行い、戒律の保持をする事に懸命の努力を払うべきである。

鳥や獣よりも劣っている様な態度で、人間相互の恩や愛というものを大切に考えて捨てないと言う事があってはならない。仮にその様な恩愛というものを大切にし惜しんだとしても、それが永遠に自分についていて離れないと言うものではない。この世における様々な権勢を持った家柄と言えども、それらの家柄に頼ってそれらの家柄にまつわりついていると言う事があってはならない。そして仮にその様な権門勢家と言う家に留まっていようとしても、それらの権門勢家というものは究極において自分の静かに住まうべき場所ではない。



              ―西嶋先生の話― 
    --つづき

3・滅諦(仕事とは理屈ではなく実際にやる事)
「ああすればいい、こうすればいい」と頭の中で考えているだけでは仕事にならない。実際に手を下して、汗水たらしてやってみなければならない。仕事というのは実際にやる事。そのことが大きな意味を持っているわけです。また実際に仕事をやってみると理論とは違う。理論とは違う実際の仕事を少しずつ身に付ける事が、さらに仕事を発展させていく上での非常に大きな要素になるという事が言えると思います。
  
4・道諦(自分の仕事がどういう意味で社会に寄与するかと言う事)
この世の中における仕事はどんな仕事でも、必ず何らかの形で社会的な意味を持っている。どんな仕事もその仕事の種類いかんに関わらず、それが必ず社会に寄与する。そういう関係なのでその仕事に真剣に取り組んでいく。こういう意味で自分自身の仕事をやるという事と仏道修行は全く同じです。

※一つの例として道元禅師が中国に行かれた時の話です。
ある夏の日照りの日に、炎天下で僧侶が岩ゴケを干していた。僧侶達の食事に使うために汗をダラダラ流して干していた。道元禅師はその年寄りの仕事ぶりを見て大変だと思ったので声をかけた。「おいくつになりました」と聞いたところ、60幾つだという。「そういう大変な仕事はもっと若い人にやらせたらどうですか」と道元禅師は言った。僧侶は「他の人にやらせたのでは、自分の仕事にならん」と返事をされた。

つまり、仕事は自分自身でやってこそ意味がある。人に任せて「はい、お願いします」といっていたのでは仏道修行にならない。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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