トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 行持(下) 18

香厳智閑禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

君臣の間柄というものに関連しては、自分の体や命の価値というものを軽く見て、自分の仕えている人が死んだ時には、その後を追って死ぬと言うしきたりを忘れないという習慣もある。しかしその様な事情というものは、人間と人間の間の恩義というものにだけ使われて、その将来と言うものは事態がどうなっているのかはっきり分らず雲や霧の中を彷徨い歩くような様子である。

権威のない人々に使われたり、あるいは庶民の間で自分の体を犠牲にし命を犠牲にするという人も昔から決して少なくない。そのような事というのは非常に惜しい話である。なぜ惜しいかというと、人間の体と言うものは仏道修行の大切な手段であり、真実を把握する器にもなり得る可能性を持っているからである。

幸いに我々は今、釈尊の正しい教えというものに出会う事が出来た。我々の体や命が千、百と言うふうに無数にあったとしても、あるいはガンジス河の砂の数と同じ様に無数にあったとしても、それらを捨てて釈尊の正しい教えを学ぶべきである。そして我々の生き方としても大して価値のない規模の小さい人々のために自分の命を捨てる事と、大きく深く遠大な釈尊の教えのために体を捨てる事と、いずれが価値が高いかという事を考えてみるべきである。

その点では、人が賢かろうと、賢くなかろうと、いずれの場合でも、自分がどうしたらいいかという事について思い煩う必要はどうもなさそうである。



              ―西嶋先生の話―
       
「仏道が一体何の役にたつんだ」と言う問題もあろうかと思います。仏道の勉強と日常生活との関係で考えてみます。我々の1日の割り当て時間は24時間。睡眠もとります、食事もします、風呂にも入りますと言う事で、我々が実際に何かに使える時間は割合少ない。

社会生活で仕事を持って働くと言う場面もあります。普通、働く時間は8時間労働と言われる。そうすると人生のうちの非常に多くの部分は働く時間にとられている。だからその働く時間を疎かにすると我々の人生というものは意味のないものになってしまう。仏道修行というと何か世間の仕事と別の問題で浮世離れしたもの、仕事は俗事で仏教とは関係ないと思われがちです。本当の意味での仏道とは、我々の日常生活における仕事というものを度外視してはありえません。仕事を一所懸命に手がけるということが、仏道修行の大切な部分と言う事にならざるを得ない。

仕事に取り組み場合にも仏教的には四段階で考えます。
1・苦諦(やる気を起こす)
仕事はつらい、仕方なくやるんだという考え方もあるかもしれないが仕事そのものが我々の人生そのもの。働く事と自分達が生きる事はまつたく同じ意味だと考えて間違いない。仕事は、自分の為とか、人の為とかそういう理屈ではない。自分のやるべき仕事が目の前にあるからやるに過ぎないと言う考え方も出来るかと思う。何らかの為にするというのが仕事ではなくて、仕事そのものをやる事に意味がある言う考え方で取り組むべきではなかろうかという気がするわけです。

2・集諦(仕事に関する知識を持つ)
今日、仕事のやり方についての本がたくさん出版されている。そういう本を読んでためになる場合もある。またかえって迷いをおこす場合もある。自分が実際に仕事をしてみてこの本には本当のことが書いてある、この本にはでたらめが書いてあると言う見分けがつけるだけでもかなりの勉強になる。単に仕事の本を読むだけではなしに、先輩の意見を聞くということも大切な事。周りの人の話を聞くということが仕事の上で非常に役に立つ。

                                つづく--


ご訪問ありがとうございます。よろしければクリックお願いします。

関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

最近の記事

最近のコメント

リンク

カテゴリ

フリーエリア

坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

FC2カウンタ-