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正法眼蔵 行持(下) 17

香厳智閑禅師が言われた。

我々の日常生活を顧みてみると、様々の計画を立て様々の努力をするけれども、その様々の計画や様々の努力というものは、いずれも自分の身の可愛さのために一所懸命やっている。そのように大切にしている我々の生身の体というものが、結局は墓の中の塵にも似たような物質になっていくのだということを承知していない。

しかし命を終わって墓の中の塵になってしまった何も言えなくなった人の存在を軽視してはならない。なぜ軽視してはならないかというと、これら墓の中の塵になってしまった何も言えなくなった人こそ、我々の死後の世界というものの実情を無言の中に語ってくれている存在である。

香厳智閑禅師の言葉について道元禅師が注釈されます。
この香厳智閑禅師の言葉から汲み取れる事は、我が身を惜しむために百の計画、千の方法という様々の努力をしてみたとしても、結局は墓の中の一塊の塵に変わってしまうのが実情である。まして何の究極的な価値のないままに小国の国王や有力者のために使われて、東に行ったり西に行ったり駆けずり回っている間のその辛さ苦しさは譬え様もない程のものであって、いったいどのように体を苦しめ、心を苦しめることであろう。

※西嶋先生解説
これは道元禅師が生きておられた時代に、沢山の人々が、あるいは国王のために、あるいは有力者のために一所懸命努力して駆けずり回っている状態というものを目の前に見ながら言われた言葉であります。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
仏・法・僧を誹謗してはいかんという事ですけれども、「仏」と「法」はわかるんですが、僧は今日流にいう僧ではなくて、釈尊の教えを信ずる者を「僧」と言うんですか。

先生
そうです。僧伽(サンガ)という意味です。僧伽というのは僧侶と尼僧と、在家の男子と在家の女子と、つまり仏道を信じて仏道修行をしている人々の集団を僧伽と言い僧というわけです。それを誹謗してはいけないと、こういう事です。

質問
そうすると、まあちょっと差し障るところがあるんですけども、現在のいわゆる「お寺さん」と称するところでは違う様な気がするんですが、それらはどうなるんでしょうか。

先生
仏道を信じている人は、もう全部僧伽(サンガ)の一員ですよ。

質問
先生がよく坐禅をしないのはダメだと言われる中で、ちょっと失礼ですけれど臨済系でも相当違うという事ですし、ましてや坐禅をやらない宗派もあろうかと思うんですけれども、私たちはそれも皆お坊さんというふうに解釈しているんですが、その辺のところは実際・・・。

先生
その辺では仏道を信じている人は全部「僧」です。僧伽(サンガ)の一員です、仏道を信じていない人は僧伽(サンガ)の一員ではないという区別です。今日、社会の様子を見てみた場合に、仏道を信じている人の人数がいかに少ないかという事を我々の日常生活で痛切に感ずるわけです。

この部屋の中に5、60名の方がおられますけれども、この部屋から一歩外へ出たら、仏道なんてものはほとんど問題にされない教えというのが現在の風潮だと思います。だから仏教を勉強しているなんていうと「あの人、ちょっとおかしいんじゃないか」(笑)と、こういうふうな批評を受けるくらいに仏道信仰というのは今日衰えているんですよ。だから「僧」というのは何かというならば、仏道を信じている人というふうに見ていいです。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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