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正法眼蔵 行持(下) 11

「石門林間録」の中に出て来る達磨大師の話に関連して道元禅師の注釈は続きます。

仮に我々が卑しい境遇の者であったとしても、仏道―つまり真実のため、釈尊の教えのために体を惜しまず命を惜しまないならば尊い存在という事ができるであろう。また古代インドにおいて全世界を支配すると伝えられていたところの転輪聖王よりも、さらに仏道のために命を惜しまないない我々の方が尊いであろう。そして、天の神や地の神や三界の世界に生きているあらゆる生き物よりも尊いことであろう。

※西嶋先生解説
三界というのは欲界・色界・無色界という事で、欲界というのは意識の世界、こうしたいああしたいという願望、希望の世界。色界というのは物質の世界。おいしいものを食べるとか、美しいものを見るとか、美しい音を聴くとか感覚的に捉えることのできる世界。無色界というのは意欲の世界、あるいは感覚の世界と別の世界、つまり我々が日常生活で過ごしている行動の世界。この三種類の世界の中に我々は生きているというのが仏教哲学の考え方。

本文に戻ります。
中国における仏教教団の最初の指導者である達磨大師は、南インドの香至国の第三王子であった。生まれた時からすでにインドの帝王の血筋であり、国王の子供であった。達磨大師の高貴な身分というものは、中国や文化を遠く離れた国においては、お仕えする際の儀式のやり方すらまだわからない状態であった。

達磨大師に対して供養するための香もなければ、供養申し上げる花もない有様であり、坐る時に使う敷物も粗末であり、住まう家も決して立派なものではなかった。まして我が国はさらにその中国からも遥かに隔たった国である。どうしてインドの王子である達磨大師を敬う儀式のやり方を知っている事があろう。仮に一所懸命勉強して達磨大師を供養する方法を習ったとしても、気持ちが素直でないためになかなかその理解さえつかないであろう。

小国の領主と大国の帝王との間では、それに対する儀式のやり方も異なっていることであろう。その礼儀作法にも軽い重いの違いがあるであろうけれども、それらも我が国においては十分に分かってはいなかったであろう。我々は自分自身が尊いか卑しいかと言う事がわかっていないと、自分自身というものをしっかりと掴んでそれを自由自在に使いこなすという事ができない。そこで自分自身がしっかりわかっていない状態であるならば、まず第一に自分自身が尊いか卑しいかという事をはっきりさせるべきである。



             ―西嶋先生の話―                             
    --つづき

仏教以外の宗教では宗教と言うのは大体心の問題、魂の問題と言う。だから体が少しぐらいおかしくっても、宗教に一所懸命であれば人生問題は悩まないという考え方がある訳であります。しかし仏教ではそんな事は言わない。人間は生身の体を持っているのだから、生身の体をちゃんとしておかないと人生の悩みは決して解けない、そういう事を主張するわけであります。
  
だからそういう点では、仏道の真実を何によって得るかと言うと、一面から言うならば体で掴むと言う事がある訳であります。坐禅ををやっている時の腰骨の正しい状態を毎日続けて、そういう体の状態を維持しながら人生を生きていくと言うのが仏道修行、それ以外に仏道修行はないと言う事も言えるわけであります。
  
道元禅師が「悟るのは体で悟るんだ」という事をしきりに言われたのは、そういう意味を持っているわけであります。

※私の独り言
昨日、天皇皇后両陛下は私的旅行を終え新幹線で帰京なさました。両陛下をお見送りしょうと沿道に集まった誰も彼もがニコニコしています。ああ天皇陛下がいる限り日本は大丈夫と思いました。私も夫も友人も皆で日の丸を振ってお見送りしました、爽やかな風が吹いたようでした。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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