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正法眼蔵 行持(下) 9

「石門林間録」の中に出て来る達磨大師の話に関連して道元禅師の注釈は続きます。

まして木・火・土・金・水といったようなこの我々の住む宇宙を組成している本源的な事実に関する隆盛や衰減についての実情がどうしてわかっておろうか。なぜこのような愚かな状態が生まれるかというと、理論がわかっているとかいないとかという事ではなしに、目の前にあるものをしっかり見ない事がこの様な事情が出てくる原因である。

この様な事がなぜ起こるかと言うと、仏教経典や書籍に書かれている思想が十分にわかっていない事が原因である。また仏教経典や書籍に関して正しい意味を教えてくれる師匠がいないからである。適切な師匠がいないという事の意味は、これらの仏教経典や書籍の意味するところが、幾十冊の書籍にも相当するということを知らず、幾百にも及ぶ偈(詩)に相当するという事も知らず、ただ文章の表面の意味だけを読むに過ぎない。

この様な国 (日本) においても、古い教典の存在を知り、古い書籍を読む人々は、過去における先輩方を慕う気持ちがあると言う事に他ならない。過去の先輩方を慕い何とかその様な人々の心を勉強たいと言う気持ちがあるならば、その昔の経典が我々の目の前に現れて来て、我々が勉強する機会を与えてくれるのである。

漢の国の創始者も、魏の国の創始者も、いずれも天文学、つまり星の様子、太陽の様子、月の様子、天体の様子を見て、それらが示しているところの意味を理解し、また山の姿、河の姿、その他自然の姿を見て、それがどういう意味を持っているかと言う事を理解した帝王である。この様な形で天体の姿や自然の地形の理解ができるような人々にとっては、天・地・人と言うものが持っている意味が多少わかって来るのである。



              ―西嶋先生の話―
    --つづき

ですから我々の社会生活というのは「名誉と利得」のどちらかの価値というものをねらって行われているという場合が大体ほとんどだというふうに見ていいわけです。だからある人は誉められたいという事に熱心になるわけで、そうするとこっちの名誉の方へずうっと寄っていくわけです。ただ、ある程度人から誉められるようになって自分でも満足がいくようになってくると、人から誉められるだけではつまらないと感じて来る。

人に誉められるという事は結構だけれども、そのために損をしている、中々財産が出来ない。あるいは商売の方でマイナスが出るという事になると、ある時点で人に誉められているだけではつまらない、お金が儲かった方がいいと言う考え方も出て来るわけであります。そうすると考え方が変わってくる。今度は人に誉められる事なんかどうでもいい、名誉なんかどうでもいい、恥じも外聞もなくお金儲けがしたいと、こういう動きもある訳であります。

そうすると今度はお金儲けという事に一所懸命になる。それで少しずつ自分の目標に向かって目的が達成されて、かなりお金が儲かってくると今度はまた「あいつは恥も外聞もなく金を儲けた」と言われるのが嫌だということで、もう一回人に誉められたいと、また逆方向へ行く。たとえば経済界で活躍して財産的には非常に恵まれた人がそのうちに勲章が欲しくなる。そうすると、今迄儲けたお金を使って今度は勲章をもらおうと、こういう考え方でまた名誉の方向に行く 
                      ――中略――

仏道はどういう立場かと言うと、名誉にも寄り過ぎない、それから利得にも寄り過ぎない線というものがあると言う考え方をする訳であります。この両方から離れた世界が「法の世界」。名誉とか利得とかというものが本当の基準ではなくて、そういう両極端から離れた真ん中に法の世界がある。

仏道で「中道」と言うのは、こういう二つの価値の真ん中に本当の拠り所になる基準があると、こういう考え方が基礎にある訳であります。ですからこういう考え方からしますと、この「法の世界」の中で生きると言うのが、仏道修行の基本になる訳であります。法の中における日常生活、社会的な努力と言うものが仏道の世界だと、こういう理解が出来るわけであります。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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