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正法眼蔵 行持(下) 7

「石門林間録」の中に出て来る達磨大師の話に関連して道元禅師が注釈されます。

この様な記述から見るならば、達磨大師が梁の国から魏の国に行ったという事実は疑いようがない。そして嵩山の麓を通過して少林寺に滞在された。そして達磨大師は少林寺で壁に向かって坐禅をしていたけれども、それは悟りを開くために坐っていたのではなくて、坐禅している事そのものが悟りだと言う境地で坐っていたのである。

達磨大師はインドからたった一冊の経典と言えども中国に持って来られたわけではないけれども、仏道の中心というものは坐禅にあるのであるから、その坐禅を中国に伝えられた達磨大師は、経典は一冊も持ってこなかったけれども、釈尊が説かれた教えを中国に伝えた正しい指導者である。ところが歴史家はこの事を解明せず、達磨大師を坐禅によって坐禅以外の目的(悟り)を追求する人々と同列に扱って記録したという事は、大変愚かな話である。またたいへん悲しいことである。

達磨大師はこの様にして嵩山の麓で経行していた際に、犬にも譬える事の出来る様な卑しい僧侶がいて、その僧侶が達磨大師の名声をねたんで様々に迫害を加えた。そのような行いというものは大変哀れな事であり甚だ愚かな事である。達磨大師が中国に坐禅を伝えたという慈悲深い恩に対しては、仮にものを考える能力があるならばその慈悲に基づいた大恩というものを一体だれが、軽く考えることができよう。そして仮にも心を持っているものであるならば、誰がこの達磨大師の慈悲に溢れた大きな恩に報いようとしないことがあろう。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
道元禅師が示している「三世」というのは、仏教の三世観に従った表現であるのに、先生の訳は西嶋流になっていると思いますね。

先生
私は仏教における「三世」という思想は、過去・現在・未来という時間の三種類の現れを言っておるに過ぎないという判断です。ですから、それ以外に「三世」という言葉を理解する必要はないというのが私の判断です。

質問
私が申し上げているのは、道元禅師は今先生がおっしゃったようなことじゃなくて750年も前ですから、従来用いられていた仏教の三世観に従って教えられたと思うんですが・・・。

先生
私はね、その仏教の三世観というのを全然知らないし、道元禅師がそういうお考えを持っておられたというふうに理解しておりません。

質問
曹洞宗の偉い人の解説の中に「前世の恩を知らんと欲せば、すなはち今世に受くる処のものこれなり、後世の果を知らんと欲すれば、すなはち今世に為す処のものこれなり」という説明をして、前世(現在生きている前の世)、それから自分が死んだらまたその次に世があるんだそうで、仏教の法でそういうことを言って、前世とか、現在世とか、来世とかに分けて理解しているのが一般的な仏教の三世観なんですね。私は750年前には、仏教の三世観というものを、道元禅師やその周辺の方もその様な仏教観をお持ちになっていたんだと思います。

先生
私はそう思いません。そういう解説が誤りだとはっきり断言できると思います。どういう事かと言うと、仏教哲学というものは必ず自分の日常生活の中にはっきりあるんです。ですから自分の日常生活と無関係に仏教哲学は発展しないんです。日常生活をコツコツ生きていく過程の中で、釈尊が何を説かれたかという事をはっきりさせるのが仏道修行です。

ですから、道元禅師も当然そういう仏道修行の仕方をされましたから、道元禅師の日常生活の中にないような概念を取り込んで仏教哲学を解説されるという事は全くなかったと考えていいと思います。これは仏教を理解する上においてとても大事なことです。

質問
一言申し上げますと、私一人だけではなく仏教書を開いてみると他にも先生の解説とは違う方がたくさんいるという事。別に先生がそう思っているからいけないと、私は言っているんじゃありません。

先生
それでね、そういう解釈が行われているから今日まで「正法眼蔵」が読めなかったんですよ。そういう観点から「正法眼蔵」を読もうとすると、「正法眼蔵」という本は読めない。このことは大事だと思います。我々は日常生活の中で、道元禅師が何をお説きになっておられたかという事を、克明に一日一日の生活の中で勉強していかないと「正法眼蔵」は読めない本です。

人がどういう意見を述べているから「これが正しいんであろう」「これは誤りであろう」という形では、「正法眼蔵」という本はまず読めない本だと見て間違いないです。そういう事情があると思います。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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