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正法眼蔵 行持(下) 4

達磨大師は527年旧暦10月19日に、こっそりと揚子江の北側の地に行った。そしてその年の11月23日に洛陽の都に着き、嵩山いう山の麓の少林寺という寺に泊まって壁に向かって坐禅を始め、一日中ものを言わない生活をしていた。しかしながら当時の魏の国王は素質が十分でなかったために達磨大師の存在を知らなかった。そしてその事が恥ずかしい事だと言う道理さえわきまえてはいなかった。

達磨大師は南インドの国王の息子である。大きな宮殿の中の生活にも慣れ、その仕来りにも習熟している。そこで魏のような小さい国の習慣の中には、そのやり方の上でもその考え方の面でも、顔を赤らめる様な事もあったに違いないが、達磨大師はそれらの事に心動かされる事なく、中国を見捨てず、中国の人々を見捨てるという事もされなかった。

当時、菩提流支三蔵と言う僧侶がいた。その僧侶が達磨大師の評判が高くなる事を憎んで様々な誹謗中傷をしたけれども、達磨大師は余り問題にされなかった。また光統律師と言う僧侶が誤った考え方を持って達磨大師に危害を加えようとしたけれども、これを遺恨に思うだけの価値もないと考え耳を貸そうとしなかった。

この様に達磨大師には優れた徳性が多く具わっていたのであるけれども、当時の中国の人々が達磨大師の事を、仏経経典を勉強する僧侶や経典や論議についての教えだけを与える師匠であると考えた事は大変愚かな事であり、これは当時の中国の人々が仏教の大きな立場というものをまだ十分理解していなかったからである。

達磨大師は坐禅を中心とした宗派として、一つの種類の仏教の教えを説かれたのであるにもかかわらず、ある人々は達磨大師が説かれた教えと、議論を中心とした師匠たちの教えとは似たような教えであろうと考えていた。この様な考え方をする人々は、釈尊の教えを乱し汚すところの思想的に範囲の狭い畜生に類した人々である。



           ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
私は出家はできないんですから、ただ坐禅をしたり仏道を信じていればそれでいいという事になりますと、出家という大事な形式をとらないから、受戒をさせていただいただけでは出家ではないですから、ここに一つの大きな段階がありますが、そこは我慢しなくちゃいけないというわけでしょうか。

先生
そこでね、坐禅というものの救いはあるんですよ。在家であろうと、出家であろうと、足を組み、手を組み、背骨を伸ばしておる状態というものは、在家だとか出家だとかというレッテルは貼れないんですよ。だから朝晩坐禅をしておれば仏道修行としては最高のものだ。仮に出家という形をとっておっても、朝晩坐禅をしなかったら仏道修行者ではないと断言して間違いない。

質問
出家している人は、朝晩坐禅をするに決まっているんでしょう。

先生
決まっていない。やる人はやるだけのことです。そこが大事なところですよ。これから仏道が盛んになるか盛んにならないかは、坐禅が行われるか行われないかだけの問題ですよ。今日までの様々の制度、組織が今後どう変わっていくかわからない。特に仏教が世界に広まっていくためには、どういう形で広まっていくかさえわからない。

ただ個人個人の仏道修行に関連して問題を考えてみるならば、朝晩坐禅をするかしないかだけが大切で、その違いだけの問題ですよ、仏道修行というものは。だから在家というものがどういう意味を持つのか、出家というものがどういう意味を持つのかという事については、時代が変わり社会が変われば色々な変化が出てくるわけです。

質問
そうすると、出家している方が頭を剃って袈裟をつけていらっしゃっても、ろくに坐禅をなさらない様な方もあるわけですね。

先生
だからそういう形の上で考えるよりは、坐禅をするかしないかだけが全てだという捉え方で問題を考えていく必要が、今後の時代にはあるという事です。

質問
だから出家した人は偉いからああした大きな殿堂をいただいて、その中で住職だなんて坐っていられるけれども、私が坐りたくたって坐れない。そんなことをひがむという事は、やっぱり名利にこだわるみたいになりますね。

先生
だから各人が与えられた環境の中で坐禅するかしないかだけですよ、仏道修行というのは。

質問ありがとうございました。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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