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正法眼蔵 行持(下) 3

達磨大師は梁の都の金陵に到着して、梁の皇帝である武帝とお会いになった。

達磨大師に梁の武帝が問う。
自分は皇帝の位についてから、寺院を造ったり、経典を写したり、僧侶や尼僧を救済したりという事業を数多くやった。それによってどの様な功徳(効果)が得られるのであろうか。

達磨大師言う。
そういうことはすべて何の功徳(効果)もない。

そこでさらに武帝問う。
どういう理由から何の功徳(効果)もないと言われるのか。    

達磨大師言う。
寺院を造ったり、経典を写したり、僧侶や尼僧を救済したりするという事は、人間の世界にだけ通用するほんの小さな成果に過ぎない。かえって煩悩を起こす原因になるものだ。それらの事は実体のない影の様なもので、頭の中では何かがあると感じているけれども真の実在ではない。

武帝問う
仏道の世界において、本当の意味のある功徳(効果)というものは一体どういうものか。

達磨大師言う
清い智慧というものが微妙に行きわたっていて、体も自然に安定しており何の障害もない事だ。この様な功徳(効果)は俗世間的な努力にあくせくしている様な状態では得る事ができない。

武帝問う
それでは釈尊が説かれたこの世の中の究極とは、一体何ですか。

達磨大師言う。
明々白々として神秘的な何ものもない事だ。つまりあるものが全て本来の目的に従ってちゃんとあるという事が釈尊の説かれた究極のものだ。

武帝問う
では私の目の前におられる貴方は、一体何物ですか。

達磨大師言う。
そんな事は拙僧にもわからん。

武帝は達磨大師がどういうことを言っているのかさっぱり理解する事ができなかった。そして同時に達磨大師も当時の簗の国においては、達磨大師がインドからもってきた坐禅の修行法を中心にした仏道を武帝に説明しても到底わかっては貰えないだろうと感じた。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
私共在家としてはどうしても、社会的な基準というものから抜け切れないんですね。在家の人の仏道修行はどういう方法で行けばいいかという事で、私どもの救われる道というのは具体的にはどういうものでございましょうか。

先生
その点はね、仏道というものを信じて仏道修行を始めると、その人の生活そのものが仏道以外の生活ではなくなるんです。だから在家だとか出家だとかという事よりも、仏道を信じて仏道修行をすることに尽きるという事になると思います。そのことが何によって具体的に現れてくるかというならば、朝晩坐禅をするという事です。朝晩坐禅をする限り、在家とか出家とかと言う異差がなくなってしまう。

そういう生活が仏道修行であって、それ以外に仏道修行はないというふうに見ていいと思います。だから在家とか出家とかという問題に関連して何が救いになるかというならば、朝晩坐禅をするという以外に救いはないし、朝晩坐禅をするならば出家、在家の区別もどっかへ行ってしまう。ただそこには仏道修行があるだけだという事が実情として言えると思います。

特に人間社会の生産力が低い時代には特別の職業人が仏道修行をして、その人々が一般社会の人々に教えるという事が不可欠だったわけです。幸い今の世の中というのは非常に生産力の進んだ時代。だからどういう職業についておっても、一日の内のある程度の時間を坐禅に使うだけの生活の余裕というものが生まれてきているわけです。

その点では、日本の国の様な経済水準の高い国ではそのことが言えるとしても、まだ東南アジアにはそういう事態まで進んでいない国があるかもしれないけれども、幸いにして、日本の経済事情を考えてみるならば、各人が今日では自分に与えられた日常生活の一部を坐禅のために使うという事が初めて可能になってきた。そういう恵まれた時代に我々は生きているという事は言えると思います。

このことは昭和20年以前には日本においても、可能であったかどうかが疑問になるほど経済情勢は厳しかったという事が言えると思います。今日の我々ほど、日本の歴史を通じて恵まれた時代に生きている者はいないと言ってもいいほど、我々の今日は恵まれた時代にあるわけです.恵まれた時代においては、大いに恵まれた環境を活用して坐禅に励むという事が、在家、出家の問題を乗り越える最大の手段だというふうに見ていいと思います。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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