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正法眼蔵 行持(上) 59

雪峰義存禅師の説話について道元禅師の注釈は続きます。

仏道を学びたいと心がけても、よい師匠を得られないと言う悲しみを味わう場合もある。この様な事情と言うものは、自分(道元)が宋の国にあった時にも、この眼で見、耳で聞いたところである。非常に優れた徳の高い僧侶は例外なしに、弟子がどの様な人柄であるかを見抜くだけの力量を持っているけれども、現実の仏道修行の場面に立ってみると、どの様な時にもその師匠に付き従って仏道修行が出来る機会に恵まれる人は比較的少ないものである。

雪峰義存禅師が九回洞山に登って師匠の教えを受けた際にも、あるいは投子山に三回登ってその師匠の教えを受けた時にも、様々な煩わしさを耐え忍んだ事であろう。弟子が沢山いてなかなか師匠に教えを受ける機会に恵まれないとか、自分の力量不足で師匠の教えがよくわからないとか、たまたま自分の力量が進んだ時には、すでに師匠が高齢になってしまっているとか、様々な障害というものを耐え忍んだ事であろう。

この様な雪峰義存禅師の仏道修行のやり方というもの、そして釈尊の説かれた法(宇宙秩序)の取り扱いに関しては、我々は深い感動を味わうべきである。このような雪峰義存禅師の態度に従って仏道を学ぼうと言う気持ちにならない人は、その事情というものを哀れに思わざるを得ない。

※西嶋先生注解説  
以上が「正法眼蔵」の「行持」の巻の(上)であります。この「行持」の巻というのは本来上・下二つに分かれておらなかったと伝えられております。ただ余りにも一つの巻が長過ぎたので、二つに分けたと言われております。



              ―西嶋先生の話―
    --つづき

「仏」というのはどういう人かというと、やはり仏も勿論ものを考える。それからご飯も食べなきゃならん、風呂も入らなきゃならんと言う問題も当然ある訳であります。ただ凡夫と違うのは思考と感覚の間に坐禅がある。坐禅の本質は何かと言うと、行いと言う事。だから一日のうちに僅かでも坐禅をする時間がある人は、坐禅を中心にしてものを考えられる様になる。それから美味しいものを食べる事とか一杯飲むとかという事も、坐禅を中心にして味わう事ができる。

だからこの場合には、自分というものが坐禅という経験の中でしっかりと根を下ろして、そういう立場からものを考えたり、美味しいものを食べたり、音楽を聴いたりと言う事をやるようになる。そうすると、生活全体がこの坐禅の境地と言うものを中心にして行われる様になる。凡夫と仏との違いはどう言う事かと言うと、凡夫の場合にはこの中心点の坐禅がないから、考え方が考えを生んで頭の中だけでは無限に色々な考え方が発展する。ただ、そういう発展した考え方と言うものは現実に当てはめて合うかと言うと、大抵は合わない。
  
人間というのは大体ものを考える事に対する信仰があるから、自分の頭で考えた事が絶対に正しいと思っている。だから自分の考えた事と一つにならない現実というのは、現実の方が間違っているというふうな事を言う。ただ、我々が生きているのは現実の世界。だから自分の考えた事がいつも正しいとは限らない。そういう場合に、こういう坐禅と言う中心を持っている人は、この中心を基準にして問題を考えるから、考える事がいつも現実的で、そう夢のようなことは考えないという問題があるわけであります。また、ものを味わうにしても感覚的なものに溺れてしまわないと言う面がある訳です。いつも自分を中心にして”楽しむ程度”という事が失われない。

ところが感覚的な喜びというものも、自分が楽しむ事を通り越して突き進む場合が非常に多い。よくその例では、酒を飲んだ場合などには割合にブレ-キがきかなくなると言う問題があるわけであります。そうすると、たとえば道路に突っ伏して寝ている人を見ると、傍から見て非常に気の毒だ。本人はこれが最高の人生の楽しみだと思っているのかもしれないが、傍から見るとかなり惨めな感じがすると言う事もあるわけであります。

                        つづく--


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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