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正法眼蔵 行持(上) 58

雪峰義存禅師の説話について道元禅師が注釈されます。

雪峰義存禅師が様々な地方に行って仏道修行をした様子を静かに考えてみるに、雪峰禅師は長期間にわたって鍛錬されたところの優れた骨格や体力を持っていたと考えることができる。今日、仏道修行をする場合の事を考えて見るに、釈尊の説かれた教えをしっかりと把握しておられる師匠の教団に行き、真実が何かという事を教えていただきたいという事で師匠に問う場合に、その機会を得るという事が非常に難しい。

優れた師匠の教団においては、20人、30人の弟子がいるだけではなしに、教団においては100人、1000人という沢山の弟子が寺院に住まって毎日仏道修行に励んでいる。弟子は毎日のように師匠に教えを受けようと質問をし、自分が頼る事の出来る真実とは何かという事を求めている。その様に師匠とたくさんの弟子との関係であるから、師匠が弟子に教えを与えようとしても、弟子がたくさんなために時間が十分ではないと言う事情があるし、弟子を訓育しようとしても、十分に教えきらないうちに夜が明けてしまう事が多い。

師匠がせっかく教えを示しても、弟子が耳で聞き取るだけの力量がなく、眼で見取るだけの力量がなく、無駄に見聞きもせずに時を過ごしてしまう場合もある。やっと師匠の説法を見聞きする目や耳が具わってくる時期には、師匠の諸々の事情もあり師匠の説法は終わってしまうという場合もある。修行を長年にわたって重ね高齢になった仏道修行者が、すでに真実を把握してしまったと手を打って喜び大声で笑っている時に、戒律を受けてから日も浅い弟子は、師匠の説法の席に連なる機会を得る事だけでも難しい状態である。

師匠の説く教えの究極に入った弟子もいれば、究極に入りきれない弟子もある事だろうし、師匠が「この事が一番大切だ」と言う形で教えたいところをしっかりと耳で聞いた弟子もいれば、それを聞かずに逃してしまった弟子もある事であろう。時の経つのは矢が飛ぶよりも早く過ぎ去っていくものであるし、露にも譬える事のできる命とは、人の身体よりも失われ易いものである。師匠が現にいるにもかかわらず、弟子が学び得ていないと言う恨みがない事もない。



              ―西嶋先生の話―
    --つづき

だから凡夫の生活というのは非常に不安定。朝起きてから色々と心配事を考える。あるいはかつてやった自分の失敗の事を後悔する。あるいはまだやってこない将来、こうしよう、ああしようというようなことを考える。そして考えることに疲れると感覚的な刺激を求める。だから感覚的な刺激を求めることが頭を休める一つの手段になっておるわけであります。

昼間仕事をしている場合には、その間ずうっと頭を使う。そうすると夜になると、まあ冷たいおしぼりで顔でもふくとこれが最高だと思う。そして夏であれば、冷えたビ-ルで一杯グッと飲むと「いや、これは素晴らしい。これくらい人生において楽しい事はない」と思う。それはなぜかと言うと、考える事から抜け出せるから。 朝から晩までグズグズ考えていたのが、スッとそこで一度断ち切られるから、これこそ本当の人生だと感じるわけであります。

ただ、体の中にアルコ-ルが入って濃度が高まっていくと、だんだんエキサイトしてくる。そうすると普段やらない様な事を平気でやるようになる。よその看板を倒してみたり(笑)、喧嘩をしてみたり、ふだん無口の人がペラペラと人が変わったように話したりする。そして夜の12時、1時という時間になっていよいよ疲れたという事で家に帰って寝る。朝は決して寝起きはよくないんだけれども、とにかく朝起きていかなきゃならんと思うと、眠い眼をこすって一所懸命勤めに出て行く。こういう事をしていると、常に思考の世界と感覚の世界を行ったり来たりしている訳です。こういう生活をしている人を「凡夫」と言う、普通の人。
  
だからこういう生活と言うのはそう楽しいものではない。人生を本当に楽しめるかと言うと中々楽しめない。忙しい思いをしたかと思うと、今度は一所懸命に休まなければならん。休んだと思うと、また忙しい思いをしなければならんという事で、何のために生きているのかよくわからん、とこういうふうな問題がある訳であります。

                            つづく--
                             

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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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