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正法眼蔵 行持(上) 56

唐の宣宗皇帝についての説話は続きます。

ある時、黄檗禅師が仏殿で仏像に向かって礼拝をしていた時に、後の宣宗皇帝がその場で質問して言う。仏道の教えでは、釈尊(仏)に執着して何か求めるという事はない、釈尊の教え(法)に執着して何かを求めるという事もない、仏教教団(僧)に執着して何かを求めるという事もない。三つの宝はいずれも尊いものではあるけれども、それに執着して何かを求めてはならないと言う教えが伝えられています。然るに、貴方はどうして仏像に礼拝しているのですか。

すると黄檗禅師は何も言わずに、後の宣宗皇帝のほっぺたを一つ叩いてそれから言った。
自分は釈尊(仏)に執着して何かを求めているという事ではないし、法(釈尊の教え)に執着して何かを求めているという事でもないし、仏教教団(僧)に執着して何かを求めているという事でもないからこそ、この様に礼拝しているのである。

――そう言う返事をしてから、もう一度相手のほっぺたを叩いた。――

後の宣宗皇帝言う。
ずいぶん乱暴ですねえ。

黄檗禅師言う
この我々の住んでいる現実の世界は、言葉であれこれと表現できる世界ではない。乱暴だとか乱暴でないとか、そんな事を言っている暇があるものか。そこでまた、後の宣宗皇帝のほっぺたを一つ叩いた。

――後の宣宗皇帝は、これはどうにも手が付けられないと言う事でその場はそれなりに収まった――
                
武宗皇帝が亡くなった後、宣宗皇帝は俗世間の人に戻って皇帝の位についた。そこで宣宗皇帝は武宗皇帝が出していた仏法に対する禁止の命令を止めさせて、もう一度仏道を興した。そしてこの宣宗皇帝は皇帝の位にある間、いつも坐禅を好んでしていた。即位してからばかりでなく、まだ皇帝の位につかなかった時も、父親の国を離れて遠い山奥の中で寺院生活をして、ひたすら坐禅の修行をしていた。そして皇帝の位についてからも、昼となく夜となく坐禅をしていたと言われている。

父の皇帝はすでになく、兄の皇帝も亡くなり、甥の皇帝に打ちのめされた段階では、まさに憐れむべき貧窮の子であった。しかしながら仏道修行に関する志は少しも変わらずに、一所懸命坐禅の修行をやっていた。この事は世にも稀な優れた業績である。これは宣宗皇帝の生まれつきの天性に基づく、清い行い戒律の保持であろう。


   
              ―西嶋先生の話―  
    --つづき

5・禅定
坐禅によって得られた体のバランス。これを今日の生理的な理解で説明してみます。我々の体の中、特に内臓に行き渡っている自律神経が均衡しているかどうかと言う問題。我々は気持ちをあせらせて何とか気持ちを落ち着けようとしても安定しない。なぜかと言うと、自立神経が安定していないからである。この自律神経は人間の意志では安定しない神経だから自律神経といわれる訳です。自律神経を安定させるためには、体の状態から変えていかなければならないと言う問題がある訳であります。

我々が坐禅する時に、足を組み、手を組み、背骨を伸ばすのは、その姿勢をとった時に自律神経が自動的にバランスすると言う事が長年の経験で古代インドではすでに知られていた。仏道の修行法として坐禅があります。ですから「禅定」というのは、坐禅によって体の安定を得るという事。それから体の安定が得られたという事は、同時に心の安定が得られたという事でもある。それはどうしてかと言うと、仏教の基本的な考え方の一つとして、「物心一如」物と心とは一つのもの、「心身一如」心と体は一つのものと言う考え方があります。
    
6・智慧
坐禅によって得た落ち着いた気持ちに反映するものが智慧。だから体が落ち着いたという事は、心も落ち着いたという事です。その落ち着いた気持ちに反映するものが智慧。そう言う智慧が各人に具わった時に、人生の判断と言うものが間違いなく的確に出来るという問題がある訳であります。坐禅をして、心の落ち着いた状態を基礎にして智慧を身につける。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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