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正法眼蔵 行持(上) 54

唐の宣宗皇帝は憲宗皇帝の第二子であった。

若い時から極めて頭がよくすばしこかった。普段から坐禅(結趺跏坐)をする事を好み宮殿においても常に坐禅をしていた。穆宗皇帝は宣宗皇帝の兄であった。兄の穆宗が皇帝の位についていた時、朝の政が終わった直後、宣宗皇帝がふざけて天子の席に着き多くの臣下に挨拶する真似をした。これを見ていた大臣は頭がおかしくなったと思い直ちに穆宗皇帝に報告した。

穆宗皇帝は宣宗皇帝が高弟の席に座って沢山の家来に挨拶をしている様子を見て、その頭を撫でて言うには「私の弟は我々の一家における特に優れた人物である」と言って褒めた。その時に宣宗皇帝はやっと13才でしかなかった。穆宗皇帝は824に亡くなった。穆宗皇帝には三人の子供がいた。一人はのちの敬宗皇帝、次は文宗皇帝、次は武宗皇帝であった。

まず敬宗皇帝が父の位を継いだけれども、3年で亡くなった。文宗皇帝は位を継いでから1年も立たない時期に側近の臣が謀議して皇帝の位から引きずりおろしてしまった。そして武宗皇帝が位についた。宣宗皇帝は穆宗皇帝の弟であるから、三人の叔父に当たる。自分は即位せずに甥が皇帝になった国で暮らしていた。そして後に皇帝の位につく宣宗皇帝を武宗皇帝は「頭の悪い叔父さん」と常々呼んでいた。武宗皇帝は会昌年間の皇帝であり、釈尊の説かれた仏法を廃止した人である。



              ―西嶋先生の話―

「六波羅蜜」と言う言葉を説明しておきたいと思います。波羅蜜とは梵語の「パ-ラミッタ」と言う言葉の<音>を漢字で表した言葉であります。波羅蜜とは「到彼岸」と訳されています。「到彼岸」とは向こうの岸に着くと言う事。向こうの岸とは真実の世界。真実の世界に行き着くと言う事を「パ-ラミッタ」と言う言葉で表現しているわけであります。「六波羅蜜」というのは、この真実に到達する道として六種類のものがあると言われている。布施・忍辱・自戒・精進・禅定・智慧 この六つの項目を指します。
  
1・布施
我々は物に関連して、自分のもの、他人のものという考え方がある訳であります。大抵の人は自分の物が増えればいいと思う。これは人情の常。そしてたまたま他人の物も欲しくなる事もある。他人の物を何とかして自分の物にしたいと言う気持ちも、人間誰でもある訳であります。ところがそう言う心の状態がどうかと言う事について、仏教は反省を持った訳です。

人間は「自分の物が欲しい欲しい」と言うだけが普通の気持ちなのか。あるいは「自分の持っている物で人に上げられる物はあげましょう」と言うのが普通の気持ちなのか。この問題に関連して、自分の持っている物で人に上げられる物はあげましょうと言う気持ちが、普通の人間の気持ちだという事を主張された訳であります。人に物をあげると言う事が仏道修行の一つの項目として、大切だと言う事を「布施」と言う言葉で説かれている訳であります。

2・忍辱
我々の人生は決して波風のないものではない。苦しい事がいくらでもある訳であります。そういう苦しい事があったときにジ-ッと我慢をするか、やけを起こして自分の生活を乱してしまうか。この問題に関連して、苦しい事が仮に起きても、人から軽蔑をされても、辱めをうけて悔しいと言う場合でもジ-ッと我慢するかどうか。仏教では人生は様々な場面があるから、我慢しなければならない時はジ-ッと我慢しなければならないと言う事が「忍辱」と言う項目の教えであります。

我々が人生を考えていく場合に、人生の結果がいいか悪いかの一つの基準は不遇の時に腐らないかどうかと言う事。不遇の時にジ-ッと我慢出来るかどうかと言う事が、かなり大きな問題としてあると思うのであります。たまたま不遇に陥った時に、それが辛抱できなくて自分自身を捨てるという事があると人生そのものがおかしくなってしまう。自分の不遇の時にジ-ッと我慢して、時間がたつのを待つだけの力があるかないかと言う事が、人生をどう送るかと言う事の分かれ目になるという問題があろうかと思うのであります。                    
                             
                           つづく--


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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