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正法眼蔵 行持(上) 53

臨済禅師が黄檗禅師の教団にいた頃、黄檗禅師と一緒に杉や松の苗木を植えていた時に黄檗禅師が臨済禅師に質問した。

黄檗禅師問う。
この深い山の中でたくさんの木を植えているけれども、いったいそれが何の役にたつのか。

臨済禅師言う。
一つには、寺院の景色を良くするために植えるんです。二つには後世の人のための目印になると思う。

――臨済禅師はこの二つの事が、杉、松を植える目的だという事と同時に「わかりましたか」という意味で桑で地面をトントンと二度たたいた。ところが黄檗禅師は杖を逆手に持ちなおして言った。――

黄檗禅師言う。
お前はもっともらしく木を植える理由を説明しているけれども、そう言う月並みな答えだけでは拙僧(わし)は満足できない。だから本来ならば、お前はもうすでにこの杖で三十回も打たれておるはずだ。

――ところが臨済禅師は「そんな事は聞こえません」と言う意味で、「グーグ-」という声を出した。そこで黄檗禅師がその臨済禅師の態度を見て言う。――

黄檗禅師言う
我々の勉強しておる仏道思想というものは、お前の代になったならば大いに世の中に盛んになるであろう。

――そう言って臨済禅師の態度を誉めた。――

臨済禅師と黄檗禅師の問答について道元禅師が注釈されます。
この問答から知れるところは、仏道修行者が真実を得た後も日常生活の様々の仕事を大切に考えて、杉や松の苗木を植えたりという作業を自分の手で自ら鍬の柄を握って仕事をされたのだと知るべきである。黄檗禅師が臨済禅師に「我々の宗派はお前の代になったならば大いに世に行われるだろう」と言われたのも、おそらく黄檗禅師も臨済禅師も自分自身で鍬を持って、杉や松を植えると言う日常生活を一所懸命やっておられたればこそ、仏道が盛んになるという確信を持たれたのであろう。

五祖大満弘忍禅師が一所懸命に松を植えながら仏道修行をされたというかつての事迹というものが、一系に伝承されて黄檗禅師に伝わり臨済禅師に伝わったものであろう。この問答から知れるところは、黄檗禅師もやはり臨済禅師と一緒になって杉や松の苗を植えられたのである。

黄檗禅師について言うならば、かつて若い時代に大安寺で日雇いに混じって釈尊の仏像を安置した建物を掃除したり、説法するための建物を掃除していたと言う事が伝えられている。それは掃除をする事によって、心を掃き清める行動を期待したわけではい。掃き清めると言う行動によって、素晴らしい輝きを獲得しようと期待したわけでもない。ただ掃除を掃除として行ったにすぎない。黄檗禅師が斐大臣に合われたのはこの時期であった。



              ―西嶋先生の話―

私が最近体調を崩しましてから、たくさんの方々から「お体をお大事に」というご挨拶をいただいたわけですが、その際に私の体を気遣っていただくという事で大変ありがたいと感じたと同時に、身体を大切にするという事の内容を考えてみますと、案外難しいもんだと、そういう感じを持ったわけです。それはどういう事かと言うと、今回の私の場合には、医者から入院を勧められたけれども、結局入院をしなかったという事情があるわけです。

今日の自分の実感としては入院しないことが私の健康のためには非常によかった、入院していたら命取りになったかもしれないと、そういう感想を持っているわけです。そうしますと病院のベットの上で24時間、静かに寝ていることが本当に体を大切にすることなのかどうか。それからまた多少体が動けるようになりますと会社の方にも出させていただいたり、また仏教の講義を始めさせていただいたりしておるわけですが、そういう日常生活をある程度可能な限り無理のない限りやるという事を中断して、24時間自宅で寝ておることが本当に体を大切にすることなのかどうかという事を考えてみますと、中々決めかねる問題がどうも含まれておる様であります。

そういう点から考えてみますと、体を大切にするという事は簡単な様で中々内容的にはよくわからない問題を含んでいるという感想を持つわけです。道元禅師が「行仏威儀」の巻の中で「不借身命、但借身命」と言われていますが、こういう身命を惜しまずというのは、体や命をあまり気にしてブクビクしておったのでは仏道修行が出来ないからあまり気にするなと、こういう教えであろうかと思うわけです。

しかしそのすぐ後に「但借身命」と言われているわけです。不借身命という言葉はよく仏道修行の過程で聞く言葉で、体や命を惜しまないという言葉です。その言葉の内容は大変勇ましい結構な言葉ではありますが、体や命を大切にしなければならないという但借身命という言葉も同時に言っておられると言う事が道元禅師の文章の中から読み取れるわけでして、このことは我々が人生を生きていく上においてもかなり大切なことではなかろうかと思うわけです。

その点では、仏道修行者というものは釈尊の教えに従って生きるという基準があるわけでありまして、常識的に体を大切にするとか粗末にするとかという事の内容は中々難しい問題であるから、むしろ釈尊の教えに従って日常生活を生きていくという事が、我々仏道修行者の生き方になるのではないかと感じるわけです。

※私の独り言。  
これは先生が60代の頃の話です。先生はある薬を医者に言われて馬鹿正直に何年も服用していたそうです。そのうちに入院を勧められるほどに体調が悪くなり、不調の原因はこの薬意外に考えられないときっぱり薬をやめたら体調はすっかり良くなったそうです。「薬をやめて以来、私はこの年まで医者にかかったことがないんだよ」と、先生から直接お聞きしたのは先生が90才になる頃でした。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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