トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 行持(上) 52

臨済義玄禅師は黄檗希運禅師の正統な後継者である。

臨済禅師は黄檗禅師の教団にいて三年を経過したけれども、黄檗禅師に質問をした事がなかった。それを傍で見ていた睦州禅師が「お前は師匠に質問したらどうか」と臨済禅師に勧めた。そこで臨済禅師は黄檗禅師のところへ行って、仏法の大意を質問する事三回に及んだ。ところが黄檗禅師から三回が三回とも棒で六十回たたかれた。

臨済禅師は何の事かよく意味がわからなったが、さらに仏道を勉強してみようという気持ちに変わりはなかった。その後、睦州禅師に「大愚禅師のところに行って仏道を勉強したらどうか」と勧められ大愚禅師のところへ行った。臨済禅師は大愚禅師のところで仏道とはどう言うものかと言う事を知った。それはまさに、黄檗禅師や睦州禅師が共に臨済禅師をいろいろと薫陶した賜物である。

人々は達磨大師の系統を引く仏道における非常に優れた人として、臨済禅師や徳山禅師の名前を挙げる。しかしながら私(道元)の見た限りでは、力量ははるかに臨済禅師の方が徳山禅師より上で徳山禅師と肩を並べるというような形ではない。臨済禅師の力量は他の人々と同列に扱うわけにはいかないほど優れている。臨済禅師の時代の平凡な人が今日の時代に生きているならば、今日の抜群の力量を持った人よりもさらに上である。そういう時代に優れた力量を持っていた臨済禅師は、大いに評価しなければならない。

しかも臨済禅師の日常の行いは極めて純粋であって、清い行いをし戒律を保持する点では、中々普通の人が到達し得ないような境地に達していたと言われる。臨済禅師の行いというものを様々の場面に分けてあれこれと考えてみても、中々正しい理解に到達する事は出来ないものである。


           
          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
私が坐禅をさせて頂く様になってから、転ばなくなったり、怪我をしなくなったり、茶碗を割ったりしなくなったと言う事も、それは坐禅の効用だと思ってもよろしいのでしょうか。

先生
それはまさにそうだと思います。いわゆる「上の空」でなくなるという事ですよ。人間は普通「上の空」で生きているんですよ。ほとんどの人が、まともそうに「俺は大丈夫だ」と思って生きているけどね。だけれども大体「上の空」で生きているんですよ。いろんな事を頭の中で考えて、フンワカフンワカ生きているわけです。
     
坐禅と言うのは現実を見るわけだから、自分は何でこんなつまらん事ばかり考えるんだろうと言う事がわかってくる。自分は何でこんなに足が痛い足が痛いって気になるんだろうとか、自分は何でまだ時間がたたない、まだ時間がたたないと思うんだろうとかね。それが現実ですよ。それが我々の真実ですよ。そう言うものを実際につかんだ場合には「上の空」ではなくなるんです。何でもかんでも現実的に見える訳です。だからフア-ッと楽しい事ばかり考えているよりは、足元を見て転ばない様にと言う事にならざるを得ない。

質問
そうしますと、「ながら族」なんていうのはいけませんね。

先生
そう。だからやっぱり仏教では一つの時間に二つの事をやるのを嫌います。理屈を言う場合、実行する場合は別だ。何かをやらなきゃならない時は一所懸命やらなきゃならないし、理屈をこねる時は一所懸命理屈をこねなきゃならない。


ご訪問ありがとうございます。よろしければクリックお願いします。


関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

最近の記事

最近のコメント

リンク

カテゴリ

フリーエリア

坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

FC2カウンタ-