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正法眼蔵 行持(上) 51

香厳智閑禅師は潙山霊祐禅師のもとで仏道修行をしていた。

ある時、潙山霊祐禅師が香厳智閑禅師に質問した。「本から引いてきた借り物の言葉でなくて、お前自身の言葉で仏道とは何かを言ってみよ」と。香厳智閑禅師はたった一つの言葉を言おうとしたが、何回となく試みたにも関わらずとうとう何も言う事が出来なかった。そこで師匠の質問に答えられなかった事を非常に残念に思って、長年大切にしていた書物を全部火の中に入れて焼いてしまった。それからは僧侶に対して給仕する役僧になって長年の月日を重ねた。

後にかつて大証国師が住んでおられた武当山に入って、粗末な材料を使って庵を作り様々な煩わしい事を全部忘れてひっそりと住んでいた。ある日、道を掃いていたら、小石が飛び散って竹の幹にあたり「こつん」と言う音を立てた。その「こつん」と言う音を聞いた時に、仏道の主張している事が何であるかと言う事がわかった。

その後、香厳寺に住み粗末な食器や粗末な衣服を使用し、それを取り換えて使うという事もなく極めて質素な生活をしていた。そして人里離れた自然の環境の中で、一生を過ごしたのである。香厳智閑禅師がどういう行いをされたかという事は、この香厳寺に残っている。また香厳智閑禅師は普段からこの寺院から外に出歩くという事がなかっと言われている。

※西嶋先生解説 
これが香厳智閑禅師の説話であります。香厳智閑禅師がこの様な形で、竹の響きを聞いて仏道の真実が何であるかを悟ったと言う話は有名な話であります。道元禅師はここでその話を取り上げているわけであります。



              ―西嶋先生の話―

「正法眼蔵」般若波羅密の巻に「照見これ般若なり」と言う言葉がある。照見と言うのは照らし見る、般若と言うのは正しい智慧と言う意味です。坐禅をやっている時の境地、つまり特別の事を何も考えないでジ-ッと坐っている境地、それを照見と言われたわけであります。そういう特別のものを考えないで、ジ-ッと気持ち落ち着けている境地、足を組み、手を組み、背骨を伸ばしている境地と言うものが正しい智慧である。そういう考え方、そういう境地を基礎にして物事を考え、人生の生き方を考えていくと言うのが仏道と、こう言う事になるわけであります。

だから仏道と言うのは、わりあい片寄らない考え方と言う事にもなるわけであります。その事が人生を考えていく上においてかなり大切な事です。

正しい判断と言うのは、片寄らない考え方から生まれてくる。そういう点では優しいようで難しい。片寄るまい、片寄るまいと思っても大体片寄るのが人間。ただ坐禅のような修行と言う立場から見ると、体を正しい状態に置く事によって正しい考え方が生まれてくる、正しい判断が生まれてくると、そういう事があるわけです。また仏道と言うのは、まさにそういう事を言われたものである。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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