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正法眼蔵 行持(上) 49

過去における真実を得られた方々が言って来た言葉について道元禅師の注釈は続きます。

のんびりとした春の日も、書斎の明り取りの窓辺に坐って一日を無駄にすまいと考えるべきである。秋の雨がしとしと降る夜も、質素な家に坐しながら一日を無駄にしてはならないと言う事を忘れてはならない。時間がどうして我々の努力を奪うという事があろう。
我々の努力を時間が奪うのではなくて、努力をしないのは我々自身である。

人々は時間というものが我々の一日を盗み、また長い年月を奪ってしまうと考えている。時間と我々とが敵対関係に立っているわけではない。残念に思わなければならない事は、なぜその様に時間が無駄に流れていくかと言うならば、自分が実行しないからに他ならない。日常生活において自分自身をしっかりとつかまえていないことが時間が無駄に過ぎてしまう原因である。

釈尊と言えども妻がいなかったわけではない。子供がいなかったわけではない。しかしそういうものを棚上げして真実を学ぶという生活をされた。その他の祖師方と言えども様々の人間関係というものがなかったわけではない。また周囲の様々な事情というものがなかったわけではない。ただそういうものを全て棚上げして、真実とは何かという事の勉強を一所懸命にされたのである。

もし恩愛を惜しみ諸縁を惜しむという事で、そういうものを大切にして真実から遠ざかると言う事があったとしても、自分自身並びにそれを取り巻いている環境は、いくら惜しんでも時間がたって消えていってしまう。自分がこれが欲しいあれも欲しい、あれが大切だこれが大切だと考えて執着していても、時間の方が自分を捨てて他に行ってしまう。

自分はこれが大切、これが大事というものがあったならば、それを本当の意味で大切にすべきである。本当に大切にすると言う事はどう言う事かと言うと、その大切だ、これが大事だと考えているものを棚上げする事である。



           ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
私はね、相手の気持ちになるという事は相手の人格を尊重して、その相手の気持ちを察知するという事が根本になってくるように思うんでございます。

先生
う-ん、もっと直観的なものかもしれない。鏡に影が映るように瞬間にパッと分かるもんだと、そういう能力が人間には具わっているんじゃないか。それが鏡が曇っているとパッと映らないという場合が割合あるんじゃないかと、そういう見方です。で、欲張っている時、これは事態が見えないです。欲をかいてガツガツしている時というのは、自分がどういう状況の中に置かれているかが割合わからない。

欲しいものだけに目がくらんでしまっているという場合がありますね。それからまた人の評判を気にした時も、ものが見えなくなりますね。人に褒められたいという気持ちが強いと現実がどうなっているかがよく見えないという問題があると思います。だからその点では、仏道の世界というのは甘いようで厳しい面もありますね。

質問
大変考えさせられました。どうもありがとうございました。

質問
じゃ、そういう人を利口な人っていうんですね。

先生
利口な人というより坐禅をやっていると出来るんですよ、この能力は。つまり法(宇宙秩序)というものがあって、自分自身を法に合わせるんです。坐禅というのは法に自分の体を合わせるわけですよね。だから坐禅を毎日やっていると、法と自分の体とが一つになり現実がどうかという事が見えてくるんですよ。頭で考えなくても、鏡に映るような形で瞬間的にわかるわけです。

これは瞬間的に直観的にわからなければ、頭で考えてもわかるものでない。だから仏道修行がなぜ必要かというならば、そういう形で直観的に事実をつかみ取る能力を養うという事になると思います。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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