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正法眼蔵 行持(上) 48

過去における真実を得られた方々が言って来た言葉について道元禅師の注釈は続きます。

一体どの様な手立てがあった場合に、過ぎてしまった一日をもう一度取り返したという事があったであろうか。過ぎ去った一日を取り戻したと言う例はどの様な歴史の本にも書いてない。我々が人生の生き方として一日といえども無駄に過ごさないと言う事は、時間と言うものを自分の体の中に入れてしまい外に出さないことである。

過去における優れた人々は、歳月を惜しみ時間のたつのを惜しむことは、自分の眼の玉を大事にするよりも甚だしく、国家を惜しむよりも甚だしい。その歳月を無駄に過ごすという事は、名誉や利得に絡まれた浮き世の中で様々の濁りの中に我が身を沈めて、自分がどういう生き方をしているのか分らずに過ごしていく事に他ならない。

時間を無駄に過ごさないと言う事は、真実と言うものの真っ只中にありながら真実のために生きると言う事である。一つの例をとるならば、坐禅をする事によって真実と言うものと自分の体とを一体にしながら日常生活を送っていく事である。そしてそのような仏道修行が積み重なって人生とは何かと言う事がはっきりとわかってきた場合には、さらに一日一日を大切にして、一日を無駄にしないと言う事がさらに深まっていくだろう。

ただただ真実と言うもののために日常生活の実行を重ね、ただただ真実のために自分の口を使ってものを言うという事をすべきである。この様なところから、過去における真実を得られた沢山の方々が一日と言えどもその努力を無駄に費やさないという様子は、世間の人が観察すると同じ様に観察し考えるべきであるという事が知れる。



              ―西嶋先生の話―
    --つづき

自分が偉い偉いと思っている状況の時は、まだそう大した事はない。自分は本当に偉いのか、偉くないのかよくわからなくなってしまった、人からも偉いと言われるほど特に目立って見えないと言う状況の中に仏道がある。だから仏道というのはかなり「すれた人」への教えですよね。純情な人は、なかなか仏道を信じようとしない。ただ世の中の荒波にもまれて泥だらけになった経験のある人は、「いやあ、釈尊の言っている事は本当かもしれない」と言う事に気がつく訳です。

純情な人は釈尊の教えがあんまりピンとこないんですよ、正直言うと。「執着のない方がいい」という様な事がよくわからないで、「いや、執着してとにかく欲をかいて金を儲けた方がいいじゃないか」というふうに普通は考えるわけでね。世間の考えは大体そう言う事です。組んずほぐれつで一所懸命やってみても、最後になって「何のためにやったのかよくわからない」という時がある。

そんな時には、もうちょっと広い高い立場から問題を考え直してみないと「一所懸命やったけど何のためにやったかよくわからんな」と言う事になりがちです。釈尊はそういう点で、広い立場、高い立場から本当のものを眺めて、そして自分が何をやっているのかよく把んでおいた方が自分の人生を意味あらしめる最大の原因になると言われたと見ていいと思います。

仏道というのは一筋縄でいく教えではない。かなり「すれた人」でないと興味を持たない。これは本当ですよ。だから仏道に興味を持っている人は大体かなり苦労してすれた人が多い。すんなり生きてきた場合には、中々こういうひねくれた考え方を勉強してみようと言う気にならない。どうもそういうところがあると思います。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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