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正法眼蔵 行持(上) 46

過去における真実を得られた方々が言って来た言葉について道元禅師の注釈は続きます。

清い行いや戒律の保持を自分自身で実際にやったという事の影響が、我々の日常生活の中に満ち溢れて何となく嬉しい気持ちになる、何となく幸福感に満たされるという事がある。清い行いや戒律の保持ををするところから生まれる力がまだ十分でなく、釈尊の骨や髄を自分の体の中に受けないような人は、釈尊と同一の体や心である自分自身の体や心を大事にせず、釈尊と同一の姿形というものを我が身に受け取る事を喜ばない人である。

釈尊の姿、骨、髄は、元来人それぞれに具わったものであり、それは本来、去ることのないものではあるが、一見去るもののように見えるものであり、またどこかからか来るように見えるが、本来どこからも来ないものである。それは自分に必ずついて現れるものであると同時に、自分が実行しなければ決して自分のところに現れてこないものである。たとえ一日と言えども清い行いや戒律の維持を自分自身が実行するならば、そのつど釈尊の持っておられた姿、骨、髄が自分自身に身につくものである。一日は短いという事で軽く見るわけにはいかない。   

何の成すところもなく100才まで生きたとしても、坐禅を知らず仏道を知らないならば甚だ残念な歳月だと言う事が出来る。甚だ悲しむべき脱け殻の生活だと言う事も出来る。たとえ100才まで生きたとしても、感覚的(眼で美しいものを見たい・耳でいいものを聞きたい・舌で美味しいものを食べたい・鼻でいい匂いを嗅ぎたい)に把え得る刺激の奴隷になって、それを追い求め駆けずり回る事もある。

しかし、その中のたった一日だけでも坐禅をするならば、100年間の人生というもの全てを非常に意味あらしめる事が出来ると同時に、自分以外の100年生きた人々をも同じように救う事が出来るだけの力を一日の実行というものが具えている。もし一日といえども坐禅をした日があったならば、その一日というものは自分の尊い体であり命である。


 
              ―西嶋先生の話―

今日、申し上げることもやや個人的な問題で大変恐縮なわけでありますが、やはり坐禅とか仏教とかというものに関連しておりますので申し上げさせていただきますと、最近、私の家内と娘が夜わずかの時間ではありますが、各自の部屋で坐禅を始めたわけであります。私が人様に坐禅を勧めるようになりましてからもうかれこれ20年前後の歳月がたっておるわけでありますが、家族に坐禅をやらせるという事は大変難しかった。

というのは、坐禅というのは強制してやらせることのできるものでないと、こういう問題があるわけであります。ですから沢木老師もよく提唱の中で「人に坐禅をやらせるくらい難しいことはない」という感想を述べておりましたけれども、私自身も、人様に坐禅を勧めてかなりたくさんの方から共鳴をいただいておったわけでありますが、遺憾ながら家族に坐禅をやらせるという事はごく最近までできなかった。

で、自分の感化力がいかに弱いかという事を感じて大変嘆いておったわけでありますが、幸いにして家族は多少ではありますけれども、坐禅をやるようになったという事でまず一安心と、こういう感じを持っておるわけであります。仏道が盛んになる、盛んにならんと言いましても、坐禅をする人が多くなるか多くならないかと言うだけの問題だというふうに考えてもいいと思います。

ですから日本が仏教国と言われるようになるためには、日本国民のかなりの人数の人がそれぞれ坐禅をしておるという事実が必要なわけでありまして、また世界に仏教が広まっていくという事は、世界の様々の国で坐禅をする人が増えていくこと以外に仏道の興隆というものはないんだと、そういうふうに考えていいと思うわけであります。

したがいまして坐禅というものが一般の人々にその意味が理解されまして、実行する人がどんどん増えていくという事が大変望ましいという事が言えるわけでありまして、そういう形で、日本だけではなしに世界に坐禅をする人が増えていくという事を期待しておるわけであります。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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