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正法眼蔵 行持(上) 44

雲居道膺禅師が洞山良价禅師の言葉を縦横無尽に理解された上で言われた。  

ものを言っている時には実行と言うものとは切り離されている。黙々として実行している時には理屈などは言っていられない。

雲居道膺禅師の言葉について道元禅師が注釈されます。
この雲居道膺禅師の言葉は、実行という事がないと言っているわけではないし、理屈という事がないと言っているわけでもない。この場合の理論的に何かを言うという事がどういうことかというと、例えて言うならば、僧侶が寺院の中に暮らして一生寺院生活を続けて行くと言うふうな極めて地味な極めて現実的な生き方を言うのである。

実行している時というのは、雪峰禅師の生きていた時代に一人の僧侶がいて一人で庵に住んでいた。僧侶であったけれども髪を長く伸ばしてた。あるとき雪峰禅師がその僧侶のところへ行って頭を剃る話をしたところが、僧侶は自分の頭を洗って「さあ、剃ってください」と雪峰禅師の前に頭を出した。そのような真剣な行動を言うのである。

この雲居道膺禅師が言われた「理屈を言っている時には実行ができないし、実行している時には理屈を言う事ができない」という言葉は非常に大切な言葉である。理屈と実行がどういう関係にあるかと言う事を適切に説いておられる。この主張を軽く見て、棚に上げてほっとくと言うわけにはいかない。常に自分たちの頭の中に入れておいて、日常生活を生きていく上での参考にしなければならない。実行と理屈とを同じ様な扱いで錯乱させてはならない。


                   
              ―西嶋先生の話―
    --つづき
  
坐禅をしていない人は、どういう事なのかと言う問題になるわけであります。今日、坐禅をしなくても人間として生きていられると言う考え方の背景には、どうも西洋流の宗教の考え方があるように思う。西洋流の宗教では神と言うものを考える訳です。と言うのは人間と格好は非常によく似ているが人間と違って完全なもの。それに対して人間と言うのは、不完全なものと言う考え方がある。不完全なものだから不完全な生き方をしていいんだと、そういう考え方が西洋流の宗教の考え方には基本的にあるように思う。

今日、我々がそういう思想を頭に置いているから、人間は不完全で当たり前だと言う考え方が非常に強い。そんなかたい事を言ったってしょうがない、すこし箍を緩めているところでやっと人間らしい生活なんだと言う考え方が、我々の人間に対するものの考え方の基礎にどうもあるような気がする。

しかし釈尊はそう言う事を言わなかった。人間というものは生き方によって完全な生き方ができる。人間は本来完全に生きる能力を持っているものだと言われた。その点では釈尊という方は、人間以上の完全なものと言うものを信じておられなかったのではないか。人間というものが最高で、人間は生き方によっては完全な生き方が出来るものだと言う事を我々に教えられた。そう言う完全な生き方をするために教えられたものが坐禅だと言えようかと思います。

我々は坐禅をやって、初めて人間らしい生き方が出来る。坐禅から外れてしまうと、本人は人間らしい生き方をしていると錯覚しておっても、本当に人間らしい生き方ができておるかどうかと言う事が大変疑問になってくる。そして、嬉しい、悲しい、腹が立つ、不安だと言うふうな色んな感情を持って、泣いたり喚いたりしながら人生が終わってしまう。

今日の考え方では、泣いたり喚いたりするのが人間的だと思っている。泣いたり喚いたりするのが人間的なのかどうか、その辺は甚だ疑問。人間にはもっと落ち着いた生き方というものが本来あるのかもしれない。

                              つづく--


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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