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正法眼蔵 行持(上) 42

大慈寰中禅師が言われた。

一丈の議論をするよりは、一尺の実行をする方がはるかに価値がある。一尺の議論をするよりは、一寸の実行をする方がはるかに価値がある。

大慈寰中禅師の言葉について道元禅師が注釈されます。
なぜ大慈寰中禅師がこの様な言葉を言われたか。それは当時の人々が実行をおろそかにして釈尊の説かれた教えに通達する事を忘れてしまったので、その様であってはならないと言う警告をされた様に聞こえるけれども、非常に広範囲な非常に膨大な理論が間違っているというふうに理論を否定した考え方ではない。

一尺の行いは一丈の議論よりもさらに価値があると言っているのである。理論そのものが意味がないと言っているのではなく、理論よりも実行の方がはるかに価値が高いと言っているのである。ここでは一丈と一尺の比較、10倍と10分の1という長さの比較をしているけれども、単にそういう長さの比較だけではない。

須弥山(古代インド人が考えた世界の中心に立っている大きな山)と芥子粒との大きさの違いと言う論じ方もあるのである。芥子粒は確かに小さいけれども、芥子粒なりの全体を具えている。同じ全体と言う点では須弥山も芥子粒も実質的には変わらないと言う考え方もできる。我々の行いは、その行いが大きい、小さいと言ってみても、それぞれにそれなりの価値があり意味があると言う事に他ならない。

今ここで述べられた言葉は大慈寰中禅師が言おうとして出てきた言葉ではなく、自然に口からほとばしり出た言葉である。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問

三界(欲界・色界・無色界)の無色界は一所懸命の世界という事ですよね。時間を無駄にしない、頭の毛が燃えている事態から避難すると言う、そういう事が一所懸命だと思うんですが・・・。

先生
つまり、坐禅の世界は三界を超えた世界だという説明です。坐禅をしている時の坐禅の中身は言葉では説明できないと言う事があるわけです。その事は考えて考えられる世界でもない、何か感覚的にこだわっている世界でもない、何か一所懸命仕事をやっている世界でもない。何もしないで、足を組み、手を組み、背骨を伸ばしている状態が三界を乗り超えた世界である、とそういう意味なんです。だから一切を超越した世界だという捉え方もある。

そこで日常生活を一所懸命やっている生活と、坐禅との関係、仏道との関係と言う事になるわけです。坐禅をやった上での日常生活というものは、一所懸命に人間が意思的に努力をしている生活と違うわけです。坐禅に任せて生きて行くという生活が出て来るわけです。

つまり坐禅によって仏の世界に入ってしまって、その仏の世界に従って生きていく、こうしよう、ああしようと無理にねじり鉢巻で頑張るのではなしに、坐禅をしている事に頼って、ごく自然に無理のない形で生きて行くというのが仏道の世界。そういう事が「三界をこえる」と言う意味です。

我々は日常生活で坐禅がないと一所懸命頑張るわけですよ。 「これじゃいかん、これじゃいかん」と言って一所懸命頑張るわけだけれども、そう言う世界と言うのは仏道の世界ではない。朝晩坐禅をやって後は坐禅に任せると言う事で、日常生活に現れたあらゆる場面に素直に即応していくというのが仏道の生き方です。そういう事を「三界をこえる」というふうに言っておられる。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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