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正法眼蔵 行持(上) 40

寺院の守護神が語ったことに関連して道元禅師の注釈は続きます。

釈尊以来、真実を得られた沢山の方々が坐禅を中心にして仏道修行をし、清い行いや戒律の保持をして来られた。仏道修行が本来、人間を救う大きな利益を持ったものであるという事は事実としてあるけれども、人間は仏道修行の成果に助けられているという事を自覚する事がなく気が付かないという問題がある。

今ここで仏道修行を行うという事は釈尊が説かれた真実を実際の日常生活の中で実践する、つまり毎日坐禅をしながら生活をしていくという事は、都会の中で生きていようと山里に生きていようと問題ではないし、耳がいいとか、眼がいいとか、頭の働きが劣っているという事も問題ではない。

ただ仏道修行とは結局は毎日坐禅をして生きて行くという事に他ならない。大切なことは長い期間にわたって名誉や利得から離れて、様々の環境と言うものに縛られるという事があってはならない。時間を無駄にせずに、頭の毛に火が付いた緊急の事態として、何が真実か、何が人生かという事を一所懸命勉強すべきである。

いわゆる悟りを開くと言うふうな事を期待して、今か今かと待ち構える事をすべきではない。真実を得る事、悟りを開くという事は、日常生活における平凡な行いが毎日毎日きちんとやれているかどうかだけの問題だ。そうかと言って、悟りはいらないと意識的に背中を向けるという必要もない。悟る事を問題にしないと言う態度こそもうすでに、非常に尊い価値が具わっている。だから無理によそから悟りを求める必要はないと言う関係でもある。



          ―西嶋先生の話―
    --つづき

眼が覚めているんだけれども、ものを考えない時間、刺激を受けない時間があるとさあどうしたらいいか、何をしたらいいかと言う事がはっきりして来る訳です。だからそういう時間がなしに、次から次へと物事を考える、あるいは刺激を追っかけ回すという事でやっておれば、何が何だかよく分からなくなって来る。何が何だかよく分からなくなっているのに、さらに頑張るからますますおかしくなってくる。時代そのものがそうだと思う。

今、社会の全般が夢中になって努力している訳だけどもね。ある会社の例にしても、一所懸命努力して最善を尽くしたわけですよ。商売の上ではね。ただ最善を尽くし過ぎたから世間から、「ちょっとやり過ぎだぞ」と言われているだけの事でね。こんなのは世間にいくらでもある事と知っているんだけれども、皆でいじめている訳だからいじめられる方は大変だけれどもね。それに、まあいじめれれるだけの酷さもあったんでしょうね。そういう点では、世の中なかなかうまく出来ているから。

途中で止めておけばいいんだけれども、なかなか止められないところがあったのかも知れない。この世の中は、なかなか微妙に出来ていると思う。非常によく出来ていると思う。よく「この世の中は間違っている」なんて考える人がいるけれども、そう間違ってはいない。やっぱり、やるべき事をやっているといい結果が出る。おかしな事をやっていると、うまくやったと思っていても、世の中とは実にうまく出来ているから、そのうち途轍もないところから悪い結果がポロッと出て来る。

そうすると、非常に努力をして営々と積み重ねても、積み上げ方が悪いとすぐ崩れてしまうという問題があるわけですよね。だから、私はこの世の中は非常に結構な世の中だと思う。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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