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正法眼蔵 行持(上) 35

法演禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

銘記せよ。黄帝が政治を執った合宮も、蕘や舜が政治を執った総章も、いずれも屋根を草で葺いていたのである。現に黄帝や蕘や舜と我々とを比較するならば、天と地以上の隔たりがあって比較の対象にはならない。それにもかかわらず、屋根を草で葺いたような建物で政治を執っていた。この様な僧侶でない人々でさえ、草で屋根を葺いた粗末な家屋に居住している。

どうして出家した僧侶が立派な建物に住もうと望むことがあろう。もしその様な建物に住んでいるとすれば、その事を恥じるべきである。過去における先輩方が、樹木の下に住んだり、林の中に住んだという事は、古の人にとっては、在家、出家の別を問わず樹木の下や林の中に住む事を好んだのである。

黄帝は、崆峒道人広成の弟子であった。師匠である道人広成は崆峒と言う山の巌の中に住んでいた。今日でも大宋国における国王や大臣の多くは、この黄帝や広成の幽玄なやり方を伝えて実際に実行しているのである。このように考えてくると、俗世間の中で普通の生活をしている人々もこのような質素な建物に住んでいる。出家して僧侶になった人々が、どうして一般の俗生活をしている人々よりも劣っている、濁っているという事がありえよう。



              ―西嶋先生の話―

我々がなぜ坐禅をやっているかと考えてみますと、一つは一度失った目をもう一回取り戻すと言う事です。我々は長年の習慣で片目をつぶしている場合が多い。片目をつぶしている場合とはどういう事かと言うと、一つには、何もないところに「何かがある、何かがある」と思い込む癖がある。お化けがいるとか、神様がいるとか、いろいろな考え方がある。この世の中にありもしないものを、「何かありそうだ、何かありそうだ」と言ういろいろな教え方がある。

それからもう一つの片目の状態は、「あるものをない」と思い込んでしまう。たとえば、社会の恩、国の恩とかそう言うものがある。「そんなものはありはしない、そんなものは勝手に人がつくったものだ」と言う考え方もある。ないものをハッキリ「ない」あるものをハッキリ「ある」と見る事が出来るという事はわりあい大変な事。そういう眼をもう一度取り戻すと言うのが、坐禅をやる事の意味にもなろうかと思います。

人間として生きたいと言う気持ちがあるならば、目玉を二つ具える事は大切。それはこの世の中でありもしないものを、あると思い込んで一生を送るとか、あるものをないと思い込んで一生を送るとかと言う事を避けると言う事。これは非常に簡単なような事であるけれども、大切な事。その事が出来るか、出来ないか、そういう両方の目を持って、一生を生きたいと言う願いを持った人が仏道修行(坐禅)をやる。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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