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正法眼蔵 行持(上) 31

五祖山の法演禅師が言われた。

わが師匠の師匠にあたる楊岐方会禅師が住職として初めて楊岐山に住まわれた時、年経た建物の垂木までが傷んでいて雨や風による被害は甚だしかった。ちょうどその時は冬の寒い時期であったが、建物はどこも大変傷んでいた。その中でも坐禅堂は特に破損しており雪や霰が床いっぱいになっていて、坐る場所を見つけるのも難しいほどであった。

眉が伸びた高齢の僧侶も床に吹き込んだ雪を掃き出さなければならなかった。皺を交えた顔の眉を心配のためにしかめるという情景であった。そこにいた沢山の僧侶たちも、ゆったりとした気分で坐禅が出来る環境ではなかった。そこで僧侶の一人が自分の誠心誠意を披瀝して寺院の建物をつくりかえる事を楊岐方会禅師に願い出た。

楊岐方会禅師はその願いを退けて言われた。
仏教における先輩が言われたことがある。「時代はまさに一切が衰退の方向に進みつつある時であり、高い断崖や深い谷も移り変わって恒常的なものはあり得ない。どうして自分の満足のいくような形で仏道修行が出来るという事がありえよう」と。そして過去において真実を得られた方々は、ある人は木の下に宿り、ある人は露天に生活し、あるいは坐禅の間の経行をして、仏道修行をしたということが過去における先輩方の優れたやり方である。

それが一般社会から離れて仏道修行を実践した場合の奥深いやり方である。お前たちは出家をして仏道修行をしているが、手や足の動作は相変わらず落ち着きがなくそつない動きにはなっていない。そして今後生きたとしてもせいぜい4、50年である。誰が仏道修行を一時やめて立派な寺院を立て替えるという暇があろう。

この様に言って寺院の建物を建て替える事を許さなかった。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問 
お尋ねします。楊岐方会禅師は頑固一徹のように見受けられるわけですね。これは私の考えなんですが、弟子が坐禅の修行がそう進んでいないのに建物の事ばかり心配していることに対して、師匠が「今日は一喝くらわすか」というふうな解釈をしてはいけないんでございますか。

先生 
そういう事よりも、楊岐方会禅師が考えておられた一番の中心は、時間のもったいなさですよ。寺院建築をしようとすれば、一時別の建物に移るとか、そこで坐禅の修行を中断しなきゃならん、寺院の建物を建てることに時間を割かなきやならん、そのことがもったいなくてやっていられないというのが、この楊岐方会禅師の主張ですよ。

だからそのことがこの偈にでてくるわけ。結局時間がもったいないからそんなことやっちゃおれんという事です。家を建てるのが贅沢だとか贅沢でないとか、そういう事よりも時間の尊さというものを考えたら、そういう切実な叫びだという事に見ていいと思います。

質問 
そしてその反面、お前たちはなんだ、坐禅の修行が届いてないじゃないか、熟してないじゃないかというような、師匠としての多少皮肉めいたような・・・。

先生
そこまであるかどうかというと、この偈の中からはそこまでは出てきてないと思いますよ。まあとにかく時間がもったいないから、そんな建物なんか立てちゃおれないと、そういう主張だと思います。

※私の独り言
西嶋先生にお会いして、世の中には仏道に生きる人が本当にいるという事に驚きました。先生は仏道を求める人には徹底的に坐禅をしなさいと教えてくださいました。そして自分に与えられた時間には限りがある、時間を無駄にしないようにとも教えてくださいました。


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コメント
614: by 七四 on 2017/08/24 at 13:10:06

普通に文章読んでれば、質問者の解釈の方が正しいのは明らか。諸先輩のやり方云々言ってるわけだから。時間のことなんて直接的には触れてない。
座禅だのとらわれない境地だの言う割には、宗教関係者は謎の自信満々断言口調でものを言うwだから世間から嫌われるね。

615:Re: タイトルなし by 幽村芳春 on 2017/08/28 at 23:53:05

コメントありがとうございます。

このブログを読んでコメントを書いて下さる方が少ないのでうれしい限りです。これからもよろしくお願いします。

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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