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正法眼蔵 行持(上) 30

天龍禅師は法常禅師の弟子であり、倶胝和尚は孫弟子である。また朝鮮半島から中国に仏道を勉強に行った迦智禅師は、やはり法常禅師のもとで仏道の勉強をして教えを伝承保持して故郷に帰り、朝鮮における第一祖となった。現在、朝鮮半島で仏道を教えている沢山の師匠方はいずれも法常禅師の遠い孫弟子である。

法常禅師が生きていた時代には、一匹の虎にも譬える事のできる秀れた弟子と、一匹の象にも譬える事のできる秀れた弟子とが常に法常禅師のそばにあって給仕し、その秀れた弟子たちは争うという事はなかった。法常禅師が亡くなってからは、虎や象にも譬える事の出来るような秀れた弟子が、石を運び泥を運んで法常禅師の塔を建てた。その弟子達によって建てられた塔が現在でも護聖寺に残っている。

法常禅師の清い行い戒律の保持については、昔とか現在という事に関係なく、およそ高徳の僧といわれる人々は一様に称賛するところである。しかしものの考え方が十分に進んでいない人々は法常禅師の行いが称賛に値するものだとも知らず、社会生活の中で優れた人に寵愛されるとか、大きな寺院の住職になるとか、沢山の利益を得て財産が出来るとかという形で世間的に成功した僧侶の中に釈尊の教えがあると考える。それは非常に狭い範囲の中で考えられた愚かな見方と言う事ができる。



              ―西嶋先生の話―

私は講義の前によく政治の問題を取り上げるわけであります。

なぜ政治の話をするかというと、釈尊の教えは我々の生きているこの現実の世界がどんな世界かと言う事を説かれた教えでありますから、当然現実の社会と関連している。普通、宗教的な考え方では現実の世界は汚れた世界である。教えの世界はもっと清らかな世界である。だから汚れた世界は見向きもしないで、清らかな世界にあこがれる事が正しい教えだという考え方がありますが、釈尊はそう言う事は一言も言っておられない。

何が真実かと言えば、この世が真実、我々の現に生きている世界が真実、それを勉強しなさいと。釈尊は「法」をお説きになった。「法」というのは我々が生きているこの現実の世界そのもの。それを勉強しなさい、それが真実と言う事を言われた。ですから政治の世界も非常に複雑な内容を含んでおりますが、沢山の人々が自分たちの考え方を実現しようとして争っている世界であります。

だから非常に厳密な世界であると同時に真実に無縁の世界ばかりではない。人類の文化が未発達の頃には、かなりでたらめな運営が人間社会で行われたわけでありますが、人間の文化が進んできますと、人間の社会の動きもそれなりにまともになってきた。今日ではかなりまともな方向で社会運営をするようになって来ているという事であります。

そしてその頂点の争いが政治であります。だから政治を眺めてどうなっているかという事を理解する事とこの世の中がどんな動きをしているかと言う問題とが密接に関連している。そういう意味で、釈尊の教えがどういう教えかと言う事を現実に示す材料として政治が役に立つところから、私は政治の話を仏教の話の中でするわけであります。

道元禅師の教えを勉強し龍樹尊者の教えを勉強した限りでは、釈尊の教えと言うものは、どうしてもそういう現実を基準にした考え方であります。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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