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正法眼蔵 行持(上) 29

あるとき馬祖道一禅師が、弟子の僧を法常禅師のところにつかわして質問させた。

僧問う
和尚(法常禅師)がかつて馬祖道一禅師の教団におられたときに一体どの様な基礎理論を得られて、それからこの山に住むようになったのですか。

法常禅師言う
馬祖道一禅師が自分に向かって即心是仏(現在のありのままの心というものがすなわち仏である)と言われた。その言葉を聞いてからすぐさまこの山に住むようになった。

僧言う
最近では馬祖道一禅師はその様に言ってはおられません。今日ではまた別の仏法を説いておられます。

法常禅師言う
一体どの様に違うのか。

僧言う
馬祖道一禅師は最近では非心非仏(心というものが問題でもないし、仏というものが問題でもない)と言う言葉で仏道を説いておられます。

法常禅師言う
この老いぼれ奴。色々な事を言って自分を惑乱させる様な事があると承知しないぞ。「非心非仏」と言っておられるならば、それはそれで結構だ。自分は相変わらず「即心是仏」と言う言葉だけで十分だ。

―僧は法常禅師の言われた言葉を持ち帰って馬祖道一禅師に示した―

その言葉を聞いて馬祖道一禅師が言う。
大梅山の梅の実(法常禅師)は熟した。

――この説話は人天すべてが知っているところである。――



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
先日NHKで臨済禅の修行僧の生活を放映されていました。道元禅と細部にわたってもずいぶん違うものだと言う印象を受けたのですが、先生はいかがお考えでしょうか。

先生
その点は、基本的な考え方が違うという事は言えると思います。道元禅師のお考えを拝借してその問題に触れてみます。道元禅師は「正法眼蔵弁道話」の中でこの様に主張しています。「修行と悟りとが別々だと考える考え方は仏道ではない」と。ですから坐禅は悟りを得る手段であり悟りが別にあって、その悟りを得るために坐禅をすると言う考え方は仏教思想ではないと言うのが道元禅師の教えです。
    
私はその教えを信じておりますから、その点では同じ仏教と言うふうに一般には見られておりますけれども、基本的な思想が違うんではないかとそう言うふうに見ております。

質問
結局、坐禅がすなわち仏道だと言う考えで坐禅すると、その中に悟り、人生の生き方、智慧、知識等、そういうものも坐禅の中に含まれているという事を意味するわけですか。
 
先生
そういう事です。だから坐禅をする事以外に悟りがあると言う考え方を取らない事です。ただ坐禅をしていればいいと言う事になるわけです。こういう主張と言うのは、今日の時代ではあまり人気が出ないんです。「いや、そんなかたい事を言わないで、ほんの一、二冊読めば分るようにしてもらいたい」と言うのが仏教に対する期待になるわけです。
     
ですから、仏教書と言うのはたいへん売れてるわけですけれど、坐禅をやる人がどれ位いるかと言うとあまり人数はいないと言うのが実情だと思います。しかし道元禅師のお考えでは、坐禅をしていること自体が悟りなんだから、そう言い状態を味わう事によって仏道とは何かと言う事が理屈ではなしに、体全体で分って来るとこういう主張なんです。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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