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正法眼蔵 行持(上) 27

この様な形で法常禅師は山奥で一人で生活をしていた。

ある日、塩官斎安禅師の教団から一人の僧が山にやって来て、旅の杖を作るための木を見つけていたところが、山道で迷ってしまい偶然、法常禅師の庵のある場所に出た。しかも期せずして法常禅師にお会いした。

僧問う:和尚さんはこの山に住まうようになられてから、どのくらいの時が経ちますか。

法常禅師言う:ただ周囲の山々が春になると青くなり、また秋になると黄色くなるのを見て来ただけだ。

僧問う:山から出るには、どの道を通って行ったら出られますか。

法常禅師言う:川の流れについていったら、山から出られるだろう。

僧は法常禅師の返事が実に淡々としていて、しかも要点がはっきりしているので、その返事の仕方に驚き法常禅師がただ者ではないと言う感じを持った。そこで塩官斎安禅師のもとに帰って上記の状況を話した。

そこで塩官斎安禅師言う。    
自分がかつて馬祖道一禅師の教団にいた時に一人の僧に出会った。その僧が非常に優れているので印象に残っているけれども、それ以後その僧の消息は分らなくなってしまった。あるいはその僧がかつて江西で行き会ったあった僧ではなかろうか。



            ―西嶋先生の話―

私が仏教の話をするのはどうしてかと言いますと、今日の仏教はあまりに「葬儀」に中心が置かれている。そして仏教思想についての関係が非常に薄れていると言う事情がある訳であります。私は「仏教思想」というのは一つの「哲学」であるから、社会の中に広まっていかなければ意味がないと言う考え方を持っております。そこで従来の仏教と現代の社会とを結びつけると言う事を、かなり努力してやって来たわけであります。しかしこれが実際問題としてはなかなか難しい問題であります。

お寺の方々は仏教の教えよりも、やはりお葬式が中心になって活動が行われていると言う事が実情であります。それからまた、一般の社会生活をしている人々は、専門家ではないのだから「ほどほどに」と言う気持ちで仏教を勉強する場合が多い。こう言う事から、その二つを結びつける事が意外と難しいと言う実情があるわけであります。

私はその二つの「中間」に、出家も在家も両方含んだ形で「本当の仏教を勉強する集団」と言うものが出来なければならないのではないかと言う見方をしております。そのことは、家庭生活を持つ持たないは別にして、ものの見方が仏道の立場に入っていかないと本当の仏教思想と言うものは身に付かない。それと同時に仏教の教えと言うものを、あくまでも一般の人々に知ってもらって、社会生活を仏教の教えに従って実行していくと言う事が目標であります。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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