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正法眼蔵 行持(上) 25

趙州従諗禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

そして啞ではないという事が、釈尊の説かれた教えの中における言葉では表現できない究極の真実を得た事態なのだと人から聞かされることもなく、自分自身がすでに釈尊の説かれた教えの究極を得たという事を知らないのは、甚だ哀れな事と言わざるを得ない。結局のところ寺院の中に住んで清い行いをして戒律の保持を黙々と行うべきであり、東に向かって風が吹けば東に傾き、西に向かって風が吹けば西に傾むく様な不安定な状態であってはならない。

5年、10年と、春風に吹かれ、秋の月を眺めてと言うふうに、1年、1年を寺院の中で静かに暮らしていくならば、それと自覚されるわけではないが、理論や感覚を超越した真実の道がはっきりと日常生活の中にある。真実を得たと言う状態は自分では気が付かないし、自分で理解が付いたという事ではないけれども、あるいは理解を超越した状態ではあるけれどもそれはそれでいい。ただ日常生活における僅かな時間でも惜しくて惜しくて仕方がないと言うふうに学ぶべきである。

そして自分が何も口に出して言わないという事が甚だ空しい、実質的な価値がないというふうに疑う必要はない。寺院に入ったり、寺院を出たりという様々の具体的な行動というものが、それぞれ寺院生活というものであり、鳥の様に無制限な世界を悠々と飛び歩くという事も寺院生活の一形態であり、この宇宙の中で自由自在に生きていくことも、また一つの寺院生活のあり方である。



          ―西嶋先生にある人が質問した―
  
質問
五体満足でありながら、自分の事が不満足でどうしても否定的になってしまう。こんな時には具体的にどう自分を肯定するようにもっていったらいいんですか。

先生
私が本心を言うと大抵の人が嫌うんですがそのために坐禅があるんですよ。つまり足を組み・手を組み・背骨を伸ばして坐っていると、自分というものがわかってくるんですよ。自分がわかって来ると言う事は、自分が何をしたらいいかという事もわかってくる。他の人と比較して、恵まれている、恵まれていないと言う考えも出てこない。自分は自分だと言う形で、自分に自信を持って日常生活を努力していくと言う生き方にならざるを得ないわけです。

質問     
たとえば、しょうがい者などはあまり下手な同情を嫌いますが・・・。 

先生
ええ、それはあると思いますよ。人に対する同情というものが、受ける方にとって非常につらい場合もあると思いますよ。で、与える方にとっては自分自身の快感である場合があるわけです。これは人間のあさましさでね。人に対して色んな面倒を見る場合も、人に対して温情を与えるというねらいよりは、優越感を無意識のうちに味わっておるという形もあるわけでね。

だからそういう点では、人間のやる事っていうのは、かなり慎重にやらないと、せっかくの好意が無になってしまう。せっかくの好意が相手を傷つけるというような場合がいくらもありますね。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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