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正法眼蔵 行持(上) 1

行持(上)の巻、本文に入る前に西嶋先生の話です。

「行持」の巻の表題でありますが、「行」というのは行い、「持」というのは長い時間継続するという意味にとれると同時に、我々の日常生活の行いの中で戒律を保持していくという意味にも取れるわけでありまして、戒律を維持するという意味にとった方がより言葉の内容が具体的になるというところから、ここでは「行持」という言葉を「梵行持戒」という言葉、「梵行」というのは清い行い、「持戒」というのは戒律を保持する、そういう言葉の略されたものという考え方で理解していく方がより適切だというふうに考えるわけであります。

この巻では仏教の一つの特徴である「人間の行い」というものを非常に重視した問題が説かれておるわけであります。一般に考えると行いを正すという事は大変堅苦しい。何もそんな堅い事を言わなくてもいいではないか、やりたい放題大いに楽しめばいいではないかと言う考え方もあります。今日はそういう考え方が盛んで、各人が一所懸命楽しんでいる。各人が楽しまなければいかんと思っている。

人間は楽しむ義務があると思っているから、皆一所懸命いろんな工夫をして楽しむ事に精を出している訳であります。もちろん楽しむと言う事が決して悪いわけではない。ただそれと同時に、人間がやらなければならない事を堅苦しいからやめておこう、と言う考え方では人生がつまらなくなると言う問題がある。なぜ我々が行いと言うものを考えるかと言うと、人生を面白くするため。なぜ自分の行いを正しくする事が人生を楽しむ事につながるかと言うと、正しい行いというのは自分自身の行い、自分自身の本来の姿、自分自身の本来の生活と言う事である。

本来の生活から脱け出して、楽しいだろうと思われる事を一所懸命やってみても、本当の人生を楽しむ事にならないと言うのが仏教の教えです。したがって、正しい行いをなぜするか。仏教のためにするわけでもない、教えのためにするわけでもない、自分自身の人生の意味を最高に発揮するためにやる。正しい行いは、自分自身の人生を最高度に発揮するための唯一の道としてやると言う問題があるわけであります。この「行持」の巻は、自分自身の人生を一番価値のある形で実現するためには、どうしたらいいかと言う事が書いてある。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
仏道は難しい難しいと言いますけど、本当はどうしようもなく易しいんだと思います。私たちが勉強してきたものはみんな難しかったから、勉強は難しいと信じ込んでしまっている。私自身はあまり平凡なことを改めて言われると、それを難しく取ろう取ろうとしているから難しくなってしまうのではないかと・・・。

先生
まさにその通りですよ。ですから仏教を難しくするのは坐禅をしないからですよ。坐禅をしますとこのくらい簡単なものはない。坐禅をしている以外に仏道はあり得ない。ただ坐禅をしていればいいというだけの問題。ところが坐禅をせずにさて仏道を理解しようと思ったら、何万冊、何百万冊と本を読んでも絶対わかるものじゃない。仏道というのはそういうものだという事がはっきりあると思います。

だから坐禅をしている限りこんな易しいものはない、わかるもわからないもないわけで、足を組み、手を組み、背骨を伸ばしておれば、自分自身と仏道とは別ものではないという事情が直ぐ出てくるわけです。そういうものが仏道であるし、それが釈尊の教えだと、こういう事が言えると思います。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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