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正法眼蔵 恁麼 25

ある時、曹谿山の大鑑慧能禅師が南嶽懐譲禅師に説示した。「この現実の世界というものは、言葉では表現できない何かが現にこの様に目の前に現れておる。それが現実の世界の実態だ」と。

この大鑑慧能禅師の言葉の意味は、言葉では表現できない何かと言うものは、疑う事の出来ない現実であるけれども、理解しようとしても理解できるものではない。我々の住んでいる現実の世界は、言葉では表現できない何かと言われているのである。この世の中に存在する一切万物もまたまさに例外なしに、言葉では表現できない何かだと学ぶべきである。

どの一つをとってみてもあらゆるものが、まさに例外なしに何々と説明する事の出来ないものであると学ぶべきである。この様に言葉では表現できない何かと言う捉え方をすると、えてして一切のものに対して疑いを持つと言う態度が想像できるけれども、決して疑いを持つという事が実態ではない。

我々は現に目の前に様々な事物を見ている。その様々な事物は疑いようのないものであるけれども、言葉ではそれを説明する事はできない。しかし現に我々の目の前にこの様に現れているのである。

            「正法眼蔵恁麼」
            1242年 旧暦3月26日
            観音導利興聖宝林寺において沢山の人々に説示した。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
慧可大師が達磨大師のところへ来て「不安である」と。そしたら達磨大師が「心を持ってこい」と。慧可大師が「どこを探しても心というのはありません」と言ったら、達磨大師が「じゃ、お前は心がないんだから安心した事になる」とかという、それに近い問答がございましたね、あれはどう言う事でしょうか。

 先生
仏教哲学の基本では、心と言うものはないんだと言う考え方があるわけです。だからふつう心と言うものがあるというふうに考えて、安心するとか安心しないとかというふうに常識的には考えるわけですけれども、哲学的に詰めていくならば、心と言うのは一体どこにあるんだと、そういう事を問題にするわけです。
     
例えば「正法眼蔵」古仏心の巻には心というものの説明があるわけです。心というのは垣根、壁、瓦、礫だと言う説明があるわけです。垣根、壁、瓦、礫ということは、心というものは別にあるのではなくて、垣根がみえる、壁が見えるというふうな具体的な事物があるという事が、心というものがあるだろうという事の唯一の証拠だ。それを別にして心と言うものはない。そうすると物と心とが一つのもので、二つに分ける事ができないのが現実の世界。これが仏教哲学の基本の考え方です。 

だからその事が達磨大師と慧可大師の問答の中でもでてくるわけで、慧可大師は心というものがあるもんだと思い込んでいるから、その心を安らかにしたいと言う事で達磨大師の所へ行ったわけですけども、達磨大師は「心を持って来い」と言うことで慧可大師は「見つけても見つかりません」と言ったら、心がないという事は、すでにもう安心というものが必要がないと言う事をはっきり証明していると、そういう意味で「もう安心が終わった」というふうに言われたわけです。

質問
今のはわかりました。でも何となく、やっぱり「心」がないと言っても日常的に不安であるとか。

先生
ですから人間がそういうものがあると推察している。ただ不安と言ってみても何らかの事実があるというだけであって、それを「心」だというふうに言葉をつけるから、それを安らかにしなくてはならないという問題が出て来るわけです。「心」と言う言葉があるから「心」と言う実態もあるのだろうと考えて見ても、そんなものはどこにもないと言う考え方です。

※私の独り言
ストレスという言葉もストレスという言葉があるから、ストレスという実態があると思い、ストレス解消という言葉も出てくるのかな・・・。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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