正法眼蔵 恁麼 23
石頭希遷禅師と薬山惟厳禅師との問答について道元禅師の注釈は続きます。
薬山惟厳禅師の質問に石頭希遷禅師が答えて言う。言葉では表現できないというふうなことを言ってみても、それで南方の国々に行われていると言われている「直指人心見性成仏」と言う考え方を説明するという事にはならない。また言葉で表現できないと言う事だけではないと言うふうな説明をしてみても、それによって南方に行われている仏教の考え方を説明するわけにはいかない。
その点では、言葉では説明できない何かだと言う説明でも不足だし、言葉では表現できない何かではないと言う説明でもやはり不十分だ。そこで「お前はいったいこの問題をどういうふうに考えるか」と逆に問い返された。これが石頭希遷禅師が薬山惟厳禅師に対して教えられた言葉である。
自分(道元)が考えてみるに、仏道の目標とするところは現実そのものであるから、言葉では表現できない何かだと言ってみても、現実そのものを表わす事はできない。言葉では表現できない何かでは表現できないと言ってみても、やはり現実そのものを表わすことはできない。
そのようなものが現実であるから、石頭希遷禅師は言葉で表現することのできない何かだと言ってみても十分ではないし、言葉では表現できない何かという事では不十分だと言っても、やはり問題の本質を説明したことにはならない。
※西嶋先生解説
石頭希遷禅師が何を言おうとされたかというと、言葉では表現できない何かというものは、言葉では表現できないものであって、それが現実である。したがってそれはどう言葉で説明してみようと思っても説明できるものではないから、現実に我々の体を使って体験するしかない。先ほど我々は45分間坐禅をしておったわけでありますが、その45分間何をしていたかというと、言葉では表現できない何かを自分の体で実際に体験していたという事に他ならないわけであります。
―西嶋先生にある人が質問した―
質問
先生は「行動するとき実在の意味がある」といわれましたが、そこのところをもう少しわかりやすく教えて下さい。
先生
その事は、四つの考え方を基準に考えていくとわかりやすくなるかも知れません。
1・苦諦(心を中心に考える)
我々の住んでいる世界は、現に自分がここに心を持っている。だから非常に広がりのある、非常に価値のある、永遠のものだと言う考え方も出来る。
2・集諦(物を中心に考える)
この世の中は瞬間瞬間の存在でしかない。物質的な存在でしかない。だからそれは常に壊れつつあるもので決して永遠のものでもなんでもない。特別の意味がある訳ではないと言う考え方も出来る。
3・滅諦(行いを中心に考える)
我々が日常生活において一所懸命に生きているという事は、周囲の環境がなければ一所懸命に生きられない。それと同時に我々自身が一所懸命にやらなければその様な事実も起こりえない。その事は我々が日常生活において、汗水たらして一所懸命努力すると言う場面を考えて見るならば、この世の中は永遠のものではない。瞬間的なものでもない。ただ自分が一所懸命にやっていると言う事実に即応して生まれてくる世界だとそういう捉え方も出来る。
4・道諦(坐禅の境地)
もっと現実的に問題を考えていくならば、今述べた1・2・3の考え方はいずれも、我々の頭の中で考えた事でしかない。我々の日常生活というのは決して思想ではない、頭の中で考えられたものではない。現に生身の体が動き回っているのが現実であり、生身の体が動き回っているところに宇宙の存在はあり得る。
ご訪問ありがとうございます。よろしければクリックお願いします。

薬山惟厳禅師の質問に石頭希遷禅師が答えて言う。言葉では表現できないというふうなことを言ってみても、それで南方の国々に行われていると言われている「直指人心見性成仏」と言う考え方を説明するという事にはならない。また言葉で表現できないと言う事だけではないと言うふうな説明をしてみても、それによって南方に行われている仏教の考え方を説明するわけにはいかない。
その点では、言葉では説明できない何かだと言う説明でも不足だし、言葉では表現できない何かではないと言う説明でもやはり不十分だ。そこで「お前はいったいこの問題をどういうふうに考えるか」と逆に問い返された。これが石頭希遷禅師が薬山惟厳禅師に対して教えられた言葉である。
自分(道元)が考えてみるに、仏道の目標とするところは現実そのものであるから、言葉では表現できない何かだと言ってみても、現実そのものを表わす事はできない。言葉では表現できない何かでは表現できないと言ってみても、やはり現実そのものを表わすことはできない。
そのようなものが現実であるから、石頭希遷禅師は言葉で表現することのできない何かだと言ってみても十分ではないし、言葉では表現できない何かという事では不十分だと言っても、やはり問題の本質を説明したことにはならない。
※西嶋先生解説
石頭希遷禅師が何を言おうとされたかというと、言葉では表現できない何かというものは、言葉では表現できないものであって、それが現実である。したがってそれはどう言葉で説明してみようと思っても説明できるものではないから、現実に我々の体を使って体験するしかない。先ほど我々は45分間坐禅をしておったわけでありますが、その45分間何をしていたかというと、言葉では表現できない何かを自分の体で実際に体験していたという事に他ならないわけであります。
―西嶋先生にある人が質問した―
質問
先生は「行動するとき実在の意味がある」といわれましたが、そこのところをもう少しわかりやすく教えて下さい。
先生
その事は、四つの考え方を基準に考えていくとわかりやすくなるかも知れません。
1・苦諦(心を中心に考える)
我々の住んでいる世界は、現に自分がここに心を持っている。だから非常に広がりのある、非常に価値のある、永遠のものだと言う考え方も出来る。
2・集諦(物を中心に考える)
この世の中は瞬間瞬間の存在でしかない。物質的な存在でしかない。だからそれは常に壊れつつあるもので決して永遠のものでもなんでもない。特別の意味がある訳ではないと言う考え方も出来る。
3・滅諦(行いを中心に考える)
我々が日常生活において一所懸命に生きているという事は、周囲の環境がなければ一所懸命に生きられない。それと同時に我々自身が一所懸命にやらなければその様な事実も起こりえない。その事は我々が日常生活において、汗水たらして一所懸命努力すると言う場面を考えて見るならば、この世の中は永遠のものではない。瞬間的なものでもない。ただ自分が一所懸命にやっていると言う事実に即応して生まれてくる世界だとそういう捉え方も出来る。
4・道諦(坐禅の境地)
もっと現実的に問題を考えていくならば、今述べた1・2・3の考え方はいずれも、我々の頭の中で考えた事でしかない。我々の日常生活というのは決して思想ではない、頭の中で考えられたものではない。現に生身の体が動き回っているのが現実であり、生身の体が動き回っているところに宇宙の存在はあり得る。
ご訪問ありがとうございます。よろしければクリックお願いします。

- 関連記事
-
- 正法眼蔵 恁麼 24
- 正法眼蔵 恁麼 23
- 正法眼蔵 恁麼 22