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正法眼蔵 恁麼 19

人間は幸いにして、自分の中に極めて尊い智慧と言うものがある事を知る事が出来る。またその智慧を活用する事も出来る。この様に人間の場合、自分の中に包まれている智慧と言うものを知り、それを活用する事が出来ると言う事情は、石とその中の宝玉との関係を例に考えて見るならば、中に包まれた宝玉がいづれは自分が気づかれ取り出されるであろうと期待している訳ではないし、外側の石もいづれは中に含んでいる宝玉を取り出して活用しようと期待しているわけでもない。

外側の石が中の宝玉の存在を知っているという事でもないし、中に包まれた宝玉が自分の智慧で外に出て来るという事でもない。この様に人間とその中に含まれている智慧とはお互いに相手を知るという事情ではないけれども、この世の中に実在する真実と言うものは、必ず人間の中に内在している智慧によって知られる、また聞かれる事があると見る事が出来る。

法華経に「智慧がなくて様々なものを疑い、様々なものを怪しんでいるという事は、まさにすべてのものを永久に失う事である」と言う言葉がある。我々の中に存在する智慧というものは、抽象的な存在だと必ずしも断定する事は出来ないし、また存在しないというふうに必ずしも断定する事は出来ない。

それはちょうど春に生い茂っている松が現在の瞬間において存在しているという状態と似ているし、秋に咲き誇る菊といえども、抽象的にそれが存在であるとか存在していないとかと言うふうな思惟の世界を乗り越えて、ただ具体的なものとしてそこにあるという事であり、それはあるとかないとかという論議を超越した存在であるという事に似ている。



          ―西嶋先生にある人が質問した―    
    --つづき

坐禅が人間の生涯を導いてくれると見て間違いないと思います。ただそういう教えはやっぱり人から好かれないんですよね。というのは「坐禅なんかやらなくても、本に書いてあることで何とかわからせてくれ」という事の方がだいたい歓迎されるわけですよ。だから「坐禅をやれ、坐禅をやれ」と言うと、そういう教えは急速には広まらないと思います。真実であると思いますけれども、誰でもが「なるほど、じゃ坐禅をやってみよう」という事で、大いに坐禅が盛んになるという事は、なかなか起きにくいんじゃないかと、こういう事は言えると思いますけど。

それと同時に坐禅の中には、そういう力が含まれているという事はっきり言えると思います。人間は頭で色々と心配して考えるよりも、体を調節してすぐ動ける体勢をいつも持っていることの方がはるかに大切。自分の体が調整されていて、どういう風にも自由自在に動けるという状況が常に具わっておれば、各人の人生は非情に素晴らしいものに発展していくという事が言えると思います。

学校の勉強にしても「やろうかなあ、やるまいかなあ」と思って、「まあちょっとコ-ヒ-でも飲んで」とか「音楽を聞いて」とかという風なことと、「勉強やるときにはやろう、遊ぶときには遊ぼう」という事で、自分が自主的に動けるか動けないかという事との違いがかなりあるんじゃないか。だから、両親が厳しいから机の前に坐っているだけで時間が無駄にたってしまって、勉強になっていないという場合がいくらでもある。

そういう点では、自分自身が自分を操縦できるような能力を持つという事が、人間として楽しく生きるための絶対の条件だと思います。仏道修行というのはそれをねらってるんです。だから仏道修行をやることによって、非常に出来のいい大人しい人間ができるという事じゃなくて、自由奔放な人間であっても、とにかく自分がやらなければならんことを一所懸命やって、終わりが来たら「ハイ、さようなら」というのが仏道にのっとった人生だと、そういう事だと思います。

長生きするかしないかなんて言うのは心配したってしたってしょうがないことで、毎日体調を整えてその日やらなきゃならんことを一所懸命やっていればいいんであって、終わりが来たら「ああ、もう休めるんだ」と思って大往生すればいいだけの事で。一生が長い短いと言ってみても、終わりが来たという事は休める時が来たという事ですよ。我々は生きているけれども、「もう疲れたなあ、休みたいなあ」と思っても、生きているうちは休めない。

これは、マラソン選手がゴ-ルを目指して走ってるようなもんで、ゴ-ルが来るまでは休めないわけですよ。だから走っている人は、早くゴ-ルが来ればいいと思って、「早く休みたい、早く休みたい」と思って生きているわけだから、生きるという事とマラソンで走ってるという事は事情はあんまり変わらん。だから休める時が来たらば大いに喜んで休めばいいんだし、休んでいけない時点では、一所懸命休まないで走らなきゃならんと、それだけのことだと思います。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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