トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 恁麼 17

「西域記」に語られている五百の蝙蝠(こうもり)は、釈尊の教えを聞きたいために枯れ木が燃えているそばに群がって、ついに法を聞くことと引き換えに死に絶えてしまったと伝えられている。五百の蝙蝠は真実を得たいと言う智慧があったために、自然にその身を焼き尽くしたということがあったし、その事情というものは、我が身を可愛がり、我が心を可愛がるということではなかった。

また「金光明教」の中には、沢山の魚が釈尊の教えを聞く事によって天使に生まれ変わったと言う話が伝えられているけれども、その場合においても、智慧が体全体に行き渡っていると言う実情があったから、環境がどうとか、直接の原因がどうとかと言う関係ではなしに、釈尊の教えを聞いた時点で、直ちにその真実を理解したという事に他ならない。

智慧が現れると言う関係は、どこかよそから到来すると言う事でもないし、我が身が智慧の中に入っていくと言う相対的な関係でもない。その様子というものは、春が我々の世界に現実に訪れて来ると言う事情に似ていて、その事は、ただ春が来る、ただ春になるという事に他ならない。

智慧と言うものは我々の想念と関係があるとか、想念と関係がないというふうな問題ではない。また智慧と言うものは心と関係があるとか、心と関係がないとかというふうな相対関係で論じうるところでもない。まして智慧が大きいとか小さいとか、迷っているとか悟っているとか、その様な議論とどうして関係があろう。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問 
卑近な例として、このたびの○○総理の亡くなり方というのはこれはどういうものでございましょうかね。仏道的に考えると、やはりマイぺ-スを外れたやり方で、私は気の毒に絶えないんですがね。

先生
人生を考える場合には、仮定法と言うのはないんですよね。「もしこうだったら」と言う仮定法というのは「歴史には仮定法がない」と言う言葉があるけれども、人生にも仮定法はないんですよ。だから各人が全力を尽くして生きて、終わりの時期が来たら「ハイさようなら」という事で、その時点において「立派な人生だった」ということで祝福されるという事で誰もいいんだと思います。そりゃまあ死に方はいろいろあるから、人から見てあんまり立派でない死に方というものもあると言えますけどね。

これは沢木老師の話の中に出てくるんだけれども、沢木老師がなぜ出家したくなったかというと、沢木老師は五歳ぐらいの時に、おじさんの家にもらわれていて遊郭の裏かなんかに住んでいたらしいね。――中略――人間というのはいろいろな死に方があるもんだと思って、ま少なくともああいう死に方はしたくないという感じを子供心に持ったのが、仏道に入りたいと思った一つのきっかけだという話をしておられましたね。

だからそういう点では、いろんな死に方があって、どんな死に方も出来るんだけれども、好みの問題、趣味の問題で、どういう死に方をしたいかって言う様な各人の願いもあるわけでね。からそういう問題が人生問題にもあると思いますよ。いろんな人がいろんな道を選ぶわけだけれども、各人それなりに「この道でよかった」と言う選び方をした方が、最終段階において満足がいくんじゃないかと言う問題はあると思います。

質問
結論から言って、そういう批判がましいことは、言う事を避けた方がいいわけですね。

先生
うん、それは言えると思う。各人がそれぞれ全力を尽くして生きるんだから、どんな形になっても、まあ最終段階では「ご苦労様でした」という事になると思う。


ご訪問ありがとうございます。よろしければクリックお願いします。


関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

最近の記事

最近のコメント

リンク

カテゴリ

フリーエリア

行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

FC2カウンタ-