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正法眼蔵 恁麼 16

六祖大鑑慧能禅師はかつては新州の木こりであった。

山へ入って焚木を取って来て、それを燃料として売る仕事をしていたのであるから、山の様子、川の様子というものは十分に知っておられただろう。そういう木こりの生活をしていたのであるから、青々と茂った松の下で努力をして、あるいは様々の考え方をめぐらせて人生問題の根源を切断しておられたとしても、どうして書斎の中にじっと落ち着いて、自分の心を照らすことのできる古人の教えがあるという事を知っていたであろう。また自分自身の生活をきれいにして、仏道修行をするという事を誰から教わる事ができたであろう。

その大鑑慧能禅師がたまたま市場において経典の唱えられているのを聞いた。この経典を聞いたという事実に関連しても、大鑑慧能禅師ご自身が経典を聞こうと、かねて心構えをしていて聞いたと言う事ではないし、他の人がいて大鑑慧能禅師に教典を聞く事を勧めたわけでもない。

大鑑慧能禅師は幼い時に父親を亡くし成長してからは母親を養育していた。その様に忙しい生活を送っていた方であるから、衣の中に一粒の輝かしい真珠があって、その真珠の光がのちに宇宙全体を照らすという価値をもっているという事を、当時どうして知ることができたであろう。しかしながらある時突然、真実を得たいと言う気持ちを起こしてからは、年老いた母の面倒を見る事をやめて修行を積んだ僧侶を訪ね仏道修行を始めた。この様な行いと言うものは普通の人には容易にできるところの生き方ではない。

およそ人間である以上、肉親の間の恩愛というものは誰が軽く見る事ができよう。しかしながら、大鑑慧能禅師が母を捨てて仏道修行に入ったという事は、釈尊の説かれた真実と言うものを重大に考えて、肉親の恩と言うものは、それより軽いものと考えたので母親に対する恩義と言うものを犠牲にした事に他ならない。

この様な状態と言うものは「法華経」の中に説かれている「智慧のある者は釈尊の教えを聞いたならば、即座にそれを信じ理解する事ができる」と言う基本的な考え方そのものである。ここに言っている智慧とは、人から学んで得られるものではない、自分自身が急に智慧を発揮するという事でもない、智慧と言うものが自然に生まれてきて、智慧と言うものがひとりでに現われて来るのである。



              ―西嶋先生の話―
 
普通我々は、自分の考えた事が正しいとすぐ考えがちであります。それから自分の眼で見えた事、人から聞いた事が本当だとすぐ感じると言う「習慣」もあるわけであります。しかし現実というものはかなり複雑なもので、その複雑な現実というものを見れる力を我々は坐禅をやりながら勉強しているんだと思います。 この現実を見ると言う問題は、政治だけの問題でなしに、経済問題にしても、社会問題にしても、様々な事実を正しく判断するためには、どうしても必要な態度だという事が言えるかと思います。その点では、仕事の上でも、あるいは個人生活の上でも、実態をよく見るという事、これはかなり大切なことです。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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