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正法眼蔵 恁麼 13

僧伽難提尊者と伽耶舎多尊者の問答について道元禅師の注釈は続きます。

伽耶舎多尊者が「心が鳴るのだ」と言う答えをされたけれども、その「心が鳴るのだ」という言葉の意味は、風が鳴っているという事でもないし、鈴鐸が鳴っていると言う事も事実にあたらないと言っているのである。心の中で何かが鳴っているという意味ではなくて、心というものが極めて静かな状態であり、何が鳴るのでもなく、ただ音があるという事を指しておられるのである。

我々が現実に日常生活において感じるところの音を考えてみるならば、ただ次の様に言う事が出来る。極めて単純に風が鳴っているのだと言う事も言えるし、鈴鐸が鳴っているのだという事も言えるし、風が吹いていればこそ音がしているのだという事もできるし、
ただ鳴っているだけだというふうにもいう事が出来る。

言葉で表現する事の出来ない事態と言うものにすでに自分がなりきっているのであるから、言葉で表現する事の出来ない何かを得たとか得ないとかという事で心配する必要はない、とかつての先輩が言われているけれども、その様な事情からこの我々の住んでいる宇宙の中には、言葉では表現できない何かがあると言うふうに主張をする事は出来ない。なぜかと言えば言葉では表現できないものは、現に目の前にある。我々の周囲に現存するという事が実情であって、その存在に対して何らかの説明は必要がない。

その事を別の言葉で言えば、この我々の住んでいる現実の世界というものは、言葉では表現できない何かというものと何の関係もないという事が実情であるから、現に我々の生活そのものが、我々の住んでいる世界そのものが、言葉では表現出来ない何かであるに他ならない。

※西嶋先生解説   
ここでは僧伽難提尊者と伽耶舎多尊者との問答を取り上げて、一般にこの問答の解釈は、心が鳴るのだと言う形で、我々の心だけが本当の実在だというふうに解釈する理解の仕方があるけれども、実はそうではなくて、心とは我々が住んでいる世界の実情が、波乱のない極めて平静なものであって、そういう波乱のない平静な世界に我々がおればこそ、音が聞こえ、ものが見えるという事に他ならないと言う事を説かれている訳であります。



              ―西嶋先生の話―

各人は与えられた環境において一所懸命生きざるを得ない。与えられた環境の中で一所懸命生きると言うだけが我々の人生です。はたから「あの人の人生は結構だった」とか「あの人の人生は駄目だった」とかと言う事は言えないんです。各人には各人の絶対の人生があるという見方でいいと思います。ただ、えてして自分自身の人生だからと無理にカ-ブを切って、おかしな方向に行って苦労すると言う生き方もいくらでもあります。各人は各人の与えられた立場を素直に全力を尽くして生きるという事に他ならない。誰の人生でも。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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