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正法眼蔵 恁麼 12

僧伽難提尊者と伽耶舎多尊者の問答について道元禅師の注釈は続きます。

たとえば論議を主とした師匠が行う物事の中心となっている事柄に寄り掛かった解釈や、近似的なものに寄り掛かった解釈のようなものである。このような解釈というのは、釈尊が説かれた教えの奥深いものを学ぶという態度ではない。

しかしながら釈尊の教えを正しく伝承して来た師匠に学んだ場合には、無上菩提正法眼蔵(釈尊の説かれた最高の真実、正しい教えの眼目)というものを静寂(特別の音もない、動揺もない、静かな状態)と言うのであり、それをまた別の言葉では無為(作為のない状態)ともいう。また別の言葉では三昧(坐禅によって得られる境地)とも言い、陀羅尼(どのような場合でも特別の威力を発揮する言葉)とも呼ばれる。

この「静寂」という問題に関連しての基本的な考え方は、一つの部分、一つの事実に関連してその状態が静かで落ち着いているならば、この世の一切というものが落ち着いていることに他ならない。

※西嶋先生解説
この事はどういうことかというと、一人の人が坐禅をして落ち着いた気持ちになると、世の中全体が落ち着いた様子になってくる、宇宙全体が落ち着いた様子になって来るという事を言うわけであります。これは実際に我々の経験として考えて見ればわかる事で、自分が腹を立て「悔しい、悔しい」と思っている時は、世の中全体、宇宙全体が「悔しい、悔しい」という思いに燃え上がっているわけです。

ちょっと心がけを入れ替えて坐禅をすると、さっきはなぜあんなに悔しかったんだろうというふうに不思議になるほど気持ちが落ち着いてしまう。そういうふうに気持ちが落ち着いてしまうと、宇宙全体について、気持ちが落ちついたというふうな感じを受ける。だから、我々の気持ちと宇宙全体という物とは綿密な相互関係があって、まったく一つのものの表裏というふうに見ても決して間違いではない。

道元禅師の注釈に戻ります。
風が吹いてくるということも極めて平静なこの宇宙の中における事実であり、鈴鐸が鳴るという事実も風が吹くのと同じように極めて平静な事実に他ならない。この宇宙の一切のものが全て落ち着いていて静かであると言うのである。



           ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
我々のこういうグル-プは世間では少数派の中の少数に属するというか・・・。先生はとにかく坐ることを勧めておられますね。これで自分はずっと行くと思うんですけど時々グラグラと来ることがある。果たしてこれでいいのかと思ったとき、やっぱりこれでいいんだと言っている本はこの「正法眼蔵」以外にはないんですか。

先生
その点では、「正法眼蔵」が一番的確にそのことを説いておられるという事が言えると思います。なぜそういう形が出てきたかと言うと、道元禅師ほど仏教思想を明快につかまれた方はそう何人もいないという事、特に道元禅師のような高い程度に仏道思想というものを捉れた方はおられないんじゃないかという事があると思います。だから仏教思想とは何かという事を勉強する場合には、「正法眼蔵」という本が最高の本だと言えると思います。

質問
そして仏道そのもの、理論ではなくて実際と理論の相乗効果的なところを求めているように思うんです。

先生
うん、それがあると思います。それと同時に、釈尊の教えというのは修行を非常に強調された教えなんです。それはどういう事かというと、我々は頭の働きというものを非常にに信用しているという面がありますから、頭で考えたら何でも分かるというのが世間一般に行われている基本的な考え方になるわけです。釈尊は人生問題を考えられた際に、どうも頭の中の働きだけですべての問題が解決しないのではないかという考えを持たれた。

その点では、単に脳細胞の動きだけではなしに体全体の問題だ、あるいは自分の体の動かし方の問題だという事に気づかれたのが仏教という思想の大きな特徴になるわけです。その体の動きをどういう形で統制していくかという問題に関連して、それの一番簡単なやり方として、「坐禅」という古代インドには昔からあった修行法を採用されたわけです。だから釈尊の思想の基本の中には、坐禅をやるという考え方があるわけです。

「正法眼蔵」は仏道を勉強する上において、「なぜ坐禅をやらなければならないか」という事を事細かに書いておられるわけです。疑問の余地のない形で詳細を述べておられるというところに特徴があるわけです。だから「正法眼蔵」を読んで仏道の理論的な側面を勉強しながら自分自身で坐禅をやるならば、仏道修行においては欠けているところはないと、そういう事が言えると思います。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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