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正法眼蔵 恁麼 8

雲居道膺禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

インドにおいてはこの様な考え方から述べられた言葉がまだ言われていないとしても、さらに一段と進んだ境地で述べて見るべき考え方がある。地によりて倒れた人が地によりて起きようとするならば、つまり具体的な問題で行き詰った人が具体的な問題を基礎にして起き上がろうとするならば、永遠の時間がたってもやはり立ち上がることはできない。

それはどういうやり方で立ち上がる事が出来るかと言うと、たった一つの生き方によって立ち上がることができるのである。それは具体的な問題で行き詰まったならば、人は抽象的な理論によって立ち上がり、抽象的な論議よって行き詰まったならば、人は具体的な問題を根拠として立ち上がるという事も現実にあるのである。

もしこの様な考え方で具体的なものに行き詰ったならば、抽象的なものを根拠にして立ち上がり、抽象的な問題に行き詰ったならば、具体的な根拠によって立ち上がると言う形で対処しないならば、決して我々は立ち上がる事は出来ないのである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
釈尊の説かれた四諦論の理解の仕方について教えて下さい。

先生
仏教というのは四つの立場(苦諦、集諦、滅諦、道諦)から、繰り返し繰り返し考えていって初めて理解できるものである。ところがそういう思想は他には中々ない。たいてい一つの考え方で考えようとするから仏教がわからなくなる。仏教の立場では、第一の段階として「苦諦」と言う考え方で捉え、第二の段階として「集諦」と言う考え方で捉え、第三の段階として「滅諦」と言う考え方で捉え、第四の段階として「道諦」と言う考え方で捉える。

苦諦・人間がモノを考える時には何でも理想的に考え最高のものとして考える。言葉によるものの考え方と言うのは一番いいものを頭において問題を考えるわけですから、現実の世界と比較すると現実の方がはるかに劣っているから苦しみを感じるというのが実情です。心と頭の働きだけが問題になって実体が見えていない。

集諦・この世の中は全部「物」だと考える。この様に物を中心に考えると精神的なものは重要ではないと言う考え方が出て来る。なぜ集諦と言うかと言うと、物質の集まりだと言う考え方です。感覚的に見えるものだけを中心にするからその意味や価値が変動する。

滅諦・理想を中心に考えれば人生は苦しくて仕方がない。物を中心とした考え方では、何のために生きているのかわからなくなる。日常生活を見つめるならば、今何かをしなくてはならないと言う具体的な、現在の問題がいつも頭の上にのしかかっている。夢のような事を考えているわけにはいかないし、そうかといって投げ出してしまうわけにもいかない。今、与えられた境遇でいかに一所懸命やっていくかという事に尽きると言う事が滅諦の立場。

道諦・苦諦、集諦、滅諦と言ってみても、所詮は考え方の問題であり理屈でしかない。日常生活において具体的に生きていくためには、間違いばかり起こしていたのでは何にもならない。坐禅をやる事によって、自分自身がどういう人間であるかと言う事を、理屈ではなしに体の実感として把む。その実感を基礎にして日常生活を生きていくならば、間違いを起こそうと思っても間違いが起こせなくなる。そうして、自分自身のやらなければならない事がセッセ、セッセと片づいていくと言う生き方ができる。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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